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2009年4月

2009年4月27日 (月)

夜桜ならぬ夜フジを見に行った。

少し前の話であるが、翌日が荒れ模様であるとの予報をTVで見た家内が、夕方帰宅した僕に「今から藤の花を見に行きたい」と言う。強風と雨で花が散る前に見たいということである。

なんとなく疲労感を覚えていたので、半分仕方なく車で40分くらいは掛るであろう、隣町の霧島市にある和気神社へ向かった。多分着く頃は日も暮れて本当の藤の色は見れないだろうと思いながら、温泉街で少しは名の通った日当山から逸れて、結構奥深い山の中にある神社へ急いだ。

僕は知らなかったのであるが、地域を上げて「藤祭り」を盛り上げており、夕方にもかかわらず4,5台の車が駐車していた。街道には「ふじまつり」と書かれた幟が何本も立てられて、道路整備も進行中であった。

同所は和気 清麻呂を祭った神社で、坂本竜馬とおりょうが日本で初めて新婚旅行をしたと言われ、その旅行で此処に滞在した事実があり、記念碑も境内に建てられている。

この時間まで受付担当者が2人もいた。300円也の入場料を払い神社横の藤棚に向かう。夜も見物に来る人も多いのだろうか、数箇所にスポットライトが棚の下方から当てられている。

薄暗い藤棚の下に見える藤の花は、昼間に見れば綺麗なのかもしれないが、夕方にはさほど美しくは映らない。棚に入れば一面垂れ下がった藤は不気味ささえ覚えるが、暫く近くで眺めると確かに、言うところの「藤色」を楽しめた。白色の藤もあることも初めて知った。家内は少し甘い匂いがあるというが、僕にはあまり匂わなかった。

どんな草花でもそれを何時見ても、良く観察すると綺麗で可愛いものだ。狭くて庭とは到底呼べないような我が家の通路にも、ブロック塀の上にもプランターを置き、草花を植えている。下駄箱の上や廊下に置いている植物も、玄関に入ると僕を迎えてくれるようだ。若い頃は全く関心の無かった草花に、大いに関心を向けつつある最近のこの身を、老いの忍び寄りと診るは穿った見方か?

和気神社に、娘の安産と生まれ来る孫の健やかな成長を祈願し、暗くなった山道を下った。

和気神社の藤

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同上

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八重の藤

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五稜郭の藤

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坂本竜馬とお龍、日本最初の新婚旅行の地

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和気神社

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2009年4月26日 (日)

4度目のマラソン、なんとか完走。

4度目のマラソン、10キロコースは2度目である。風邪が完全に治っていないので、正直なとこ自信が無かった。何とか体力に自信を付けようと考え、23日のゴルフコンペでは今日を意識して、一度もカートに乗らず全ホール駆け足で廻った。

本日の会場は鹿児島県湧水町(旧栗野町)の栗野工業高校付近である。僕が住む姶良町から高速道で約20分、7時40分に自宅を出た。一緒に行く予定であった家内は自治会の資源物収集立会いの為に、前回に続いて今回も一人で出掛けることになった。

既にかなりの車があちこちの駐車場に駐車していたが、それにもまして多かったのは小中学校の生徒達で、揃いのウインドブレーカーを身に纏い、いっぱしのランナーである。将来有望な選手この中から出るかも知れない。

今日は寒かった。曇り日和に加え風が強く、多くは長袖を身に纏っていたが、さすがスタートする時は殆どが半袖かランニングシャツ姿に変身。

撮影を頼む人がいないので、記録するチャンスが限られる。周囲の状景は撮影したが、自分の姿格好は係りの人に頼んで撮って貰った。それでもスタート時とゴール時の撮影は出来なかった。

1.5キロ、3キロに続いて10時26分に10キロコースがスタートした。(5キロコースは我々の5分後にスタート)男女350名であった。前列に並んだので暫く走ったが、皆のスピードが速い。いや速過ぎる。100メーターも走らないうちに、息が乱れ呼吸が苦しくなった。一瞬これは何時もと勝手が違う、今日は完走出来ないのではとの弱音が頭をよぎった。どんどん追い越される、こんなはずでは無いと自分に言い聞かせても、息が弾んで喉が痛くなる。

女性ランナーに越されるのは実に辛い。後ろに続くランナーの数が気になって後ろを振り向いた。かなり少ない。先輩ランナーがある時アドバイスしてくれた。「順位を気にせず、回りの景色を見たり、鳥の声を聞くようにすれば楽になるよ。マイペースが一番だよ」と。でも、僕にはそんな余裕は無かった。

気持ちを完走に切り替えた。気持ちの何処かに、時間より順位を気にしていたのは事実である。その気持ちを断ち切ったとき少し楽になった。それでも3ヶ月ぶりの10キロ走である、前途を考えると何故5キロにエントリーしなかったのか後悔もした。それでも3キロ位走った頃には、呼吸も楽になっていた。

何とか完走出来た。しかし急坂の2箇所で、余りの勾配に足が上がらず歩いた。歩く人が結構いたので、気持ちは楽であった。残り1キロで時計を見た。前回は5分超過したので、今回は60分を切りたかった。が、残念なるかな50秒オーバーして、タイムは60分50秒であった。順位には満足できなかったが、タイム的には5分ほど短縮できたので良しとすべきであろうか。

湧水町のこのイベントに掛ける熱意には頭が下がる。ボランティアも多数参加しており、係員の親切は身に沁みた。記念品や抽選で全員が貰える賞品、温泉入浴券の配布等に掛る費用は、到底参加費では賄えないはずである。アンケートを取り次回のマラソンに活かす等、他の会場ではやっていない積極的な試みは素晴らしい。

温泉で疲れを取り、清清しい気分で自宅へ向かった。なお、350人中の順位は完走証に記録されていなかったが、60歳以上の順位は37人中32位で、いかに完走を目標にしたとしても満足できない順位であった。

賑わう受付会場

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開会式

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ファミリーコースのスタート

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格好だけは一人前の筆者

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ゴールするランナー

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湯煙は栗野岳

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2009年4月25日 (土)

気の置けない仲間とのゴルフ、飲み会はやはり賑わう。

僕にとっては今年3度目のゴルフである。例年なら既に8回位はプレーしている計算になるのだが、当地に仲間がいないことに加え、故郷の熊本へ出かける回数が減ってしまったことも原因にある。

友人のO君が幹事長になり、僕の転居に伴う送別ゴルフと飲み会をセットで計画してくれたのが発展して、年二回の「辰・ドラゴン会」なる名称で定着した。今回は5回目の会合で、僕が住む鹿児島県で行うことに決まっていた。

ゴルフ場も泊まる施設も、我々が勤めた会社の関連会社を利用させてもらうことになったので、そのゴルフ場で働く元仲間とも再会できる楽しみもあった。気の置けない仲間との再会はこんなにも喜びがあり、会話も弾むものなのか。殆どの人とは5ヶ月ぶりの再会であった。

スタート前の集合写真(蒲生カントリークラブ)

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4組16名が好天のもと、賑やかにスタートしていった。僕のパーティーの一人は長年一緒の工場で勤めたことのある友人で、現在このゴルフ場の常務をしている。昔も上手かったが、僕みたいな下手な者とは一緒に回るのが気の毒なくらいの上級者になっており、夜の宴会で彼の優勝が発表された。

プレー後は風呂にも入らず、車で1時間の距離にあり霧島の山中に建つ、元職場の保養所に向かった。早速掛け流しの温泉で汗を流したあと会食に入った。水も飲まず我慢していたので、一杯のビールは素晴らしく美味しかった。皆の注目はコンペの結果である。僕はスコアからブービーを覚悟したが、ハンディーに助けられ4位、それでも余りにも多いグロス数とハンディー数にプライドはズタズタであった。

食事風景

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心地良い気分になった後は別室に移動、ここからが本番である。仲間にはプロ顔負けと言っても過言でない、ギターとハーモニカの名手T君とY君がおり、この二人はボランティアで老人ホーム、特養等を回り、伴奏したり時には自ら歌って、老人達の心を和ませているのである。我々も彼らの伴奏に合わせ、年相応の時代の歌を心行くまで楽しんだ。

ハーモニカとギターで演奏するY君とT君の二人。

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一段落したところで、次はO君による居合い抜きの実演である。彼はここ5年足らずで5段を允許されたくらいの実力者である。30分位にわたる説明つきの演技に皆、真剣に見入った。古武士を思わせる風格は、性格同様持って生まれたものだろう。

居合いの演技を見せるO君。

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この後は、Mさんによる相撲甚句の披露である。彼は小学生時代から野球をやっていたし、ゴルフも上手いスポーツマンであるが、相撲に興味があることは長年の付き合いにも関わらず知らなかったので驚いた。熱心にその同好会で練習したらしい。アンコールが出るくらいに酔わせてくれた。

相撲甚句を披露するMさん(立っている人)

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若いときみたいに疲れが直ぐ取れないことを、皆自覚している。「じゃー最後に全員で歌ってお開きにするか」と誰とも無く言い出し、過ぎ去った青春時代を懐かしむように、トップギャランの「青春時代」を合唱後、次回の再会を約し、それぞれの部屋に帰って行った。ある部屋では最年長者のKさんと、彼を尊敬していると言うHさんが囲碁を打つことになり、僕は最後まで彼らの対決に立会い、伯仲したが3目差でKさんの白勝ちを宣した。

青春時代に思いを馳せ・・・

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霧島保養所遠景。

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2009年4月20日 (月)

宮崎県三股町のしゃくなげの森の見事さ!

三日前テレビで観たらしい。家内が突然、宮崎の三股町にしゃくなげの綺麗なところがあるらしいので、見に行きたいと言い出した。旅行から帰宅した後、風邪の具合は少しずつ回復し、咳もかなり治まったし、県は異なるが、その町からそう遠くない町に僕の従兄妹が住んでいて、彼女等にも会えるので行ってみるかという気持ちになり、昨日8時過ぎに家を出た。

末吉までの高速道路と国道10号、および県道を使い、約1時間45分位で到着した。三股町の市街地から10キロ程度山間に入った所で、その近くには6万本のツツジと200本の八重桜の咲く「椎八重(しいばえ)公園」があり、日曜日のために結構な通行量であった。かなり暑い日で、確か広島や大分で30度を越えたとのニュースを聞いたが、その時間帯はさほど暑さを感じることは無かった。

駐車場には30台近くが駐車し、800円の入場料はいかにも高いと思ったが、当然入場した。貰ったパンフには「日本一のシャクナゲ園」と印刷されている。

係りの人に面積とか植えられてる本数を聞いた。彼女によると「面積は3.5ヘクタールから4ヘクタールで約500種のシャクナゲが約30,000本植えられている」とのことである。

はっきり記憶してないが、経営者の男性が夫人への感謝と愛の贈り物としてシャクナゲを贈った事が切っ掛けで、この森にシャクナゲを植え始めたらしい。暫く順路に従い歩いて行くと、それはまさに森と呼んでも可笑しくないシャクナゲの群生が続く。客も多くなり殆どの人がカメラを動かし始めている。

実に沢山の種類があることを知った。少し盛りを過ぎたものもあれば、今から開花するであろう種類もあった。兎に角その美しさに見とれて、僕も50回くらいシャッターを切った。この森を管理・維持するには結構な費用が掛るだろう、1時間以上も楽しめたのだから800円でも安すぎるような気持ちに変わった。

森の中の売店で売っていた、リキュールに漬け込んだシャクナゲの葉を入れた饅頭が美味しそうに見え、食べている人に釣られて食した。餡は入ってないがまあ甘かった。

売っていた「ヤマメの甘露煮」を従兄妹の土産に買い、未だ一度も通ったことのない山道をナビを頼りに大崎町へ向かい、半年振りに息災を確認しあった。シャクナゲの森から三股町までの道路は、訪れる人達の車でかなりの渋滞で早く出て来て正解であった。

思いついての日帰り旅行であったが、シャクナゲの美しさに心を洗われた。最近集め始めたミニ盆栽を道の駅で買って、病み上がりの運転も気にならず国道10号を自宅へと急いだ。

シャクナゲの森に咲いていたシャクナゲ。

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飛騨高山、白川村、彦根市を旅した・・・・・(3日目)

予報どおり朝から小雨だった。小雨に煙る琵琶湖も風情はあったが、今日は晴れて欲しかった。相変わらず風邪の諸症状は改善されてなく、家内も同様である。晴れだと、思い切って竹生島遊覧に出ようとも考えていたのであるが、止めにした。カラオケで良く歌う、「琵琶湖周航の歌」の竹生島や長浜等を眺めてみたかったが、次回の楽しみにとって置こう。

市内の外れにあるホテルなので、シャトルバスが出た。彦根城に着いた頃は傘が必要で、我々は彦根城と彦根城博物館とのセット券を買い、ここを十分に見学することにした。ただ腰の痛みがあり、歩くのが億劫であったが約2時間強、ここでも知るは楽しみなりを実感した。雨にも拘らず観光客は多かった。

彦根城博物館は彦根の歴代藩主だった井伊家の豊富な美術工芸品や古文書等が多く展示され、甲冑・刀剣、能面・能装束、雅楽器、茶道具、絵画など、僕にはその価値の大きさは判らないが大名家に伝わる品々を興味深く観察した。

特に「井伊の赤備え」の言葉は以前から承知していたが、まさに藩主はじめ家臣全てが朱塗りの具足をつけたと言われるその実物を、目の前で見ることが出来て幸せであった。映像でしか見たこともない能舞台も付属しており、実物を見たのは初めての経験であった。

僕は旅行すると最優先にお城を見学するので、結構多くを見てきた。城内には素晴らしい庭園である「玄宮園」等もあり、この彦根城の城地の広さは他に引けを取らないように感じた。天守は国宝に指定され、姫路、松本、犬山城と共に国宝四城の一つであるとのことである。

彦根城

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天守に使用されている木柱

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鉄砲狭間(テッポウザマ)・・・敵の来襲に備え矢で防戦する際の狭間。外に見えないようにしっくい壁が塗り込められている。実戦の際は壊して使用する。

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矢狭間(ヤザマ)・・・鉄砲狭間と同じ使い方をする。

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玄宮園・・・雨のため訪れる人は少なかったが、素人目にも落ち着きのある名庭園であることが判る。大名は優雅な生活をしていたのだ。

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同上

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いよいよ本降りになった頃、博物館を退出しようとしたら係員が出てきて「今から彦にゃんのパフォーマンスの時間です」とアナウンス。TV等で偶に目にする格好は僕も知ってはいるが、大して興味はない。でも折角だからと家内が言うので室に入った。十数名の殆どが女性、しかも皆若い。彦にゃんが現れると女性達はキャーキャーと大騒ぎ。あんな重たい被り物で大変なんだろうなーと僕は同情するが、一緒に撮影するサービスの順番が今しばらく掛るので諦めて席を立ち、城の見学に向かった。

話題の彦にゃん。

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もう少し時間を掛け心行くまで彦根城や彦根市を探訪したかったが、疲れの上に雨である。琵琶湖遊覧は数年前に大津市で経験はしているが、今回は湖の北部や竹生島が目的であった。次回訪問は何時になるのか、本当に実現可能なのか、心を彦根に残しながら駅前のビルで昼食を採り、姫路行きの電車へ乗り娘達が待つ神戸へ向かった。

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2009年4月18日 (土)

飛騨高山、白川村、彦根市を旅した・・・・(2日目)

夕べ早く寝たせいか、それでも喉が痛かったが早く目が覚めた。誰が言い出したのか判らないが「朝市」へ行こうと決まった。娘と孫と娘の義父3人はそこまで歩くと言う、僕と家内と娘の義母3人は車で行くことに決まった。娘婿は眠たいと言って旅館に残った。高山には2つの朝市があるらしい。一つは「宮川朝市」一つは「陣屋前朝市」で、毎日開かれている。7時過ぎであるから少し早いと思ったが「宮川朝市」へ向かった。そこは野菜や果物、菓子をテント一杯に広げた露天が店を開けていた。川沿いの桜も満開。今まで行ったことのある朝市に比べるとそんなに規模は大きくない。客も疎ら、昼まで開かれるので今から増えるのだろうか。東南アジアの観光客十数名が盛んに写真を撮っていた。土産にと家内達は色々買い込んでいた。

宮川朝市

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朝食時、旅館から貰った、朝市のみで利用できる金券を使用しなかったことが判った。「4,000円もあるから勿体無い、次は陣屋前朝市へ行こう」ということに決まり、チェックアウト後直ちに昨日行った陣屋へ向かった。結局金券以上の買い物をしたが、それが金券配布の付け目であろう。

陣屋前朝市。

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白川村へ急いだ。高山以上に訪れたい所だったので心踊る。高山から昨年7月に前線開通した高速道を利用し、40分くらいで到着した。雪の中の合掌造りの集落が頭に残っているので、どうも今一つ、ピンと来ない。平日なのに観光客が多い。ここでも沢山の外国人観光客を見た。僕の小さい頃と違い、日本の至る所で多くの外国人を見る。

やはり合掌造りの民家は雪の中が似合う。雪の中に佇む合掌作りの民家のイメージは、容易に脳裏から離れない。それでも屋根を葺き替えている家を見たし、本物の合掌作りを見て感激した。改築等には幾らかの制約があるらしく、そのための経費を稼ぐためなのか、殆どの家が何らかの商売をしていた。民宿とか喫茶店、食堂等々。平成7年に世界文化遺産に指定された、日本の貴重な歴史的な財産である。天気が良かったため、孫は元気に走り回っていた。

白川郷の山に残る雪。

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屋根葺き替え作業中の民家。

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合掌作りの民家。

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5階建ての合掌作り。

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長さ11mもの柱(合掌柱)が全体を貫く5階建ての住宅、250年以上続く長瀬家。

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集落の一部。

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十分堪能したので、次の訪問地彦根市へ向かった。途中、高速道の脇に高く積まれた雪を見た。南国育ちの者にとって、北国は考えられない位の寒さの環境なのであろう。

道路わきに積まれた雪。

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4時過ぎ、2台の車は彦根市に到着して、彦根城を遠望した。今から入城しても全てを見ることは出来ない。僕等2人を残して彼等は神戸へ帰る予定であるので、ホテルへ送ってもらうことにした。正直体調は悪い、相変わらず悪寒が襲う。早く休みたい。琵琶湖湖畔に建つホテルは、これも娘が手配してくれたもので、既に支払いも済んでいた。全員8階の部屋に集まり、そこからの眺望を楽しんだ。西に沈む真っ赤な太陽を琵琶湖上に見たときは、それは絶景であった。この日も夕食を済ませ、シャワーを浴びた後早々に寝込んだのである。

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飛騨高山、白川村、彦根市を旅した・・・・・(1日目)

5ヶ月ぶりの神戸行き。娘夫婦にちょっとした喜びがあったので、彼等が旅行に誘ってくれたのである。娘が神戸に嫁いで早6年、年に2,3回は神戸に行って来たが、折角なのでその都度近隣の観光地を日帰りや1泊で楽しんだ。

何時も思うことだが、鹿児島から神戸は実に遠い。九州新幹線の完全開通迄の辛抱だろうが、2回の乗り換えは面倒である。ANAが65歳以上の航空券を条件付の、9,000円で売り出したが、席数に制限があり買えなければJRを利用しなければならない。僕らはJRのジパング倶楽部を利用し4割引で購入できるので、ANAの賭けを避けてJRで行くことに決めた。

今回は僕の希望を汲んで以前から訪ねたいと思っていた、飛騨高山、白川村、彦根市に行くことになった。欲を言うと郡上八幡市まで含めたかったが、時間的に無理だと判り諦めた。今回も娘一家3人と、娘婿の両親に我々夫婦の計7名が車2台に分乗し、一日だけは高速道料金1,000円制度を活用する事にした。

名神高速は渋滞を覚悟したが、混んだのは中国道が接続する吹田付近だけで、後はスムースであった。ご丁寧なことに僕等は二人とも、旅行前から風邪を引いていた。マスクはしていても車の中での咳は相手に気を遣う。その理由から一刻も早く目的地に着きたかった。

一宮JCTから東海北陸道へ入る。流石にSAは満車で、1,000円の効果は大である。SAで簡単な昼食を取り、デジカメで孫の写真を何枚も。進むに従いトンネルも多くなり、上り坂が続き高地へ向かっていることが実感される。多分、ぎふ大和IC付近だったと記憶するが、九州では見ることが出来ない雪山が前方に見えてきた。感激である。この時期雪山を見れるのは。

ぎふ大和IC近くで見えた雪山。

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孫は満腹と喋り疲れで寝入っているが、運転者である娘婿の父親と、母親と我々の会話は断続的に続く。相変わらず我々の咳も治まらず、そのたびにマスクを手で押さえ、相手に迷惑を噛めないように気を遣う。彼は何度かこちらへ来たことがあるらしく、見える山々の名前も詳しい。いかにも遠い北国へ来たような感じを受けつつある頃、出発から4時間半以上経って飛騨高山市の入口である飛騨清見ICを降りた。

飛騨高山市と雪山。(飛騨清見IC付近)

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彼は知った町の如く車を走らせ、高山市内を訪れる殆どの人が立ち寄るという「高山陣屋」へ向かった。先日、ネットで今回の旅行で訪れる名所旧跡、観光スポットは調べプリントし、その内容を一部話していたので彼は十分承知していた。歴史好きのため時間が許せば何時までも見学したいが、グループ旅行だとそれは憚られる。娘夫婦は孫を連れ、街中へ消えていった。

パンフレットによると高山陣屋は、元禄5年(1692年)に飛騨を幕府直轄領にして以来、明治にいたる177年間に25代の代官、郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察の政務を行ったそうで、御役所・郡代約宅・御蔵を併せ「高山陣屋」と称するとのことである。全国で唯一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存する為、20億円を投じて復元修理を行ったことも説明されている。

高山陣屋入口

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小京都とも呼ばれるらしく、江戸時代の面影が残る風情ある町並みには、外人観光客も多く英語、中国語も聞かれた。

市街地

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外人観光客も多い。

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我々が訪れた頃に、平年より1週間早く桜は満開になったようである。観光客の多さにも驚かされたが、殆ど塵一つない通りの綺麗さにも脱帽であった。

桜満開の高山市を流れる宮川。

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風邪がひどくなり、腰痛と悪寒、咳が激しくなった。それでも何でも見てやろうとの貪欲な気持ちは失せない。もう二度と来ることはないであろうと思うと、一分でも歩きたいので、僕らを残して他は旅館に行って貰った。

しかし、もう限界であった。高山市でも老舗の旅館に着いたときは辛さは最高潮。家内は僕に比べ早く引いた分、治りも少々早いのか咳が出る位であった。かなり贅を尽くしたと思われる造りの温泉は素晴らしく、悪寒と腰痛は治まったかに思えた。飛騨牛をメインにした料理は、風邪のために味覚は半減していたがそれはそれは美味であった。貧乏性の僕はこんな高価な旅館に泊まったことはない。今回は全て娘夫婦が旅行代理店の積み立てで計画したもので、共稼ぎしながら少しずつ貯めたであろう事を想うと胸が塞がれたが、有難く思い可能な限り残さないよう食べ、飲んだ。しかし1時間半位経った頃悪寒が再発、皆に断り布団にもぐりこんだのであった。

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2009年4月10日 (金)

自治会役員の打診を受けたが・・・。

先日僕が住む自治会の現役員T氏から電話を受けた。今回自治会の改選があるので、その体育部の部会長になってくれないかとの打診であった。2年前まで住んでいた生まれ育った熊本市では、「老人会」という名称に抵抗感を覚え、何回かの加入要請にも頑として断り続けたのであるが、当地へ骨を埋めるつもりで引っ越して来たからには、早く地域に溶け込みたいと積極的に色々な行事に参加してきた。が、こんなに早く役員への要請があるなど考えもしないことであった。

T氏いわく「あなたはゴルフとかグラウンドゴルフに良く参加されて、なかなかのスポーツマンらしいとの噂である、何とか受けてくれませんか」。僕は驚いた、生まれてこのかた人様から「スポーツマン」などと言われたことは金輪際無いし、実際運動神経は鈍い。ゴルフは何十年やっても上手くなれない、たまたま最初に参加した自治会主催のグラウンドゴルフ大会において、ビギナーズラックと呼ばれる幸運で、連続ホールインワンがあり同点2位になっただけで、週2回行われる同好会の試合では中々上位に着けないのである。

それでもその甘い言葉に酔い、一瞬「じゃーお受けしましょうか」と言いそうになった。加え「非常に少額ですが年に数万円の慰労金も出すことになっています」の一言に「少額でも今の自分には助かるなー」と殆ど承諾しそうになった。よく聞くと、年に10回程度の会議参加とスポーツ開催時の諸手配や自治会員への連絡等が業務らしい。

友人の何名かは65歳まで働いた。僕は60歳で年金生活に入ったので、家内に対して幾らかの申し訳なさを感じていた。今考えると体力的にも自信を持ち、負けん気の強い僕が、何故働かなかったのか不思議に思う時もあるが、その時自分で決断した事でもあり、何より後悔先に立たずである。亡き父から幾ばくかの生活費を補助して貰っていたことも、自分を甘やかす原因でもあった。何より何ものにも拘束されない環境が居心地良く、半年が過ぎた頃は完全にぬるま湯にどっぷり浸かっていた。

地元の役に立ちたいとの気持ちは今も持ち続けているし、それは偽りのない気持ちである。だが、承諾の返事は出来なかった。理由は一つ。僕らは留守にすることが多いのである。肝心の時に留守をして、自治会員に迷惑を掛けてはいけない。電話の間にそのことが頭を過ぎった。ようこそ踏みとどまった。受けていれば必ず後悔することであったろう。拘束されて、遠くに住むやがて2人目を出産する娘の所へ行けなかったり、趣味や法事の為の外出、外泊が出来なければ、これもまた後悔すること必至である。加入しているいくつかの団体や会を絞らねばと考えた。

友人O君は宮崎県から熊本県に移り住んで長いが、彼は完全に地域に溶け込み、人柄と面倒見の良さで部落住民から尊敬を集め、自治会の三役を務める迄になっている。只、そのことにより時間や日時的な制約を受け、仲間内の行事に参加出来ない事がある。友人Mさんは町の教育委員をつとめており、我々仲間内の行事計画は、委員会の開催予定時を外して組まねばならない。友人Hさんも自治会の連絡員を依頼され、忙しくなったらしい。

僕はこれらの事実を思い出したのである。このように受けた任務はそれを最優先にすべきことは当然なので、やはり僕はここ暫くは、責任ある業務を軽々しく受けることが出来ない。

Tさんには自分の気持ちを正直に伝え懇ろに断ったが、正直、頂ける慰労金が飛んでいってしまったのは残念であった。後日自治会長に会った際、「あと2年位待ってください、そのときはお役に立ちたいと思います」と伝えた。その頃再度の要請があるかどうか判らないが、あればお受けして町内自治会の役に立ちたいと考える此の頃である。

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2009年4月 9日 (木)

バラが咲いた、バラが咲いた、真っ赤なバラが。

亡くなった家内の母の庭から移植したバラが、昨日例年より20日も早く二輪の小さな花をつけた。平成5年から昨年を除いて毎年我々を楽しませてくれたバラの木である。「バラを育てるのはそんなに簡単ではないよ、あなたに育てられるかしら」と心配していた義母であったが、幸い毎年花を付けてくれた。昨年は、2株ある2株とも、その前の年に余りにも短く切りすぎてとうとう花を付けなかった。今年はどうなんだろうと心配していたら、昔流行った「バラが咲いた、バラが咲いた、真っ赤なバラが」の歌どおり、真っ赤な花を付けてくれた。肥料や殺虫剤を丹念に使って育てたので、そのせいであろう。北薩摩の寒い地域で一人暮らしを続けて、沢山の草花や野菜をを育て、何時もにこやかな顔で僕らを迎えてくれた義母の優しい顔を思い出させてくれるバラでもある。蕾も沢山付けているので、そのうち真っ赤な花で我々の心を和ませてくれるであろう。寒い冬を越したブーゲンビリアも少しずつ葉を増やしつつあるし、のうぜん桂もあの綺麗な僕の好きな橙色の花を咲かせることだろう。アー春だ。

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2009年4月 8日 (水)

「南国暮らしの会」情報交換会と僕の海外ステイ。

三年前に加入した「南国暮らしの会」九州支部第1回情報交換会に参加した。1回目だけは熊本での開催が決まっていて、残り2回か3回は福岡で行われる。

その会の存在は昔から知っているわけでは無かったのだが、定年一年前の59歳頃、テレビでタイ国かマレーシア国で暮らす邦人の紹介があり、それまで日本で暮らすことしか考えていなかった僕にとって画期的な映像であった。その後、今から南国で暮らそうと考える人向けに書かれた本を数冊読むうちに、僕もやってみようかと言うよりやりたいと考えるようになったのであるが、当時は年老いた父と家内との生活で実行に移すことは不可能に近かった。平成16年に父を見送って後、本に書かれた上述の団体を選び加入した。

この会は南の国でのロングステイやショートステイに関する沢山の情報を与えて呉れ、全く何も知らない時期に出席した情報交換会や、熊本地区の会員によるサロン会などに出席してみても、その和やかな雰囲気にすっかり気持ちが良くなり、目的を一つにした人間の集まりがいかに絆を深くするものかを認識した次第である。

会への参加に先立ち、先ずは南の国へ行ってようと思い、友人夫婦と家内4人でタイ国へ行った。シンガポールから着いたバンコクは、到底我慢出来る気温ではなかった。僕はかなりの暑がりでこの暑さは限界を超えていた。タイ国でのステイに諦めはついたが、この旅行後直ちにこの会への加入手続きを行った。

タイ国でのステイを諦めてはいたが、九州支部のチェンマイ下見ツアーには家内と共に参加した。どうせバンコクと同じくらいの気温だろうと思ったが、実はそうではなかった。読んだ本の全部にチェンマイのステイ者が多いことは書かれていたが、4,5日過ごす間にその快適さになるほどと納得がいった。11日程度の滞在であったが、近隣のツアーも経験し、正直後ろ髪引かれる思いで帰国した。同会のチェンマイ支部の方々の二度にわたる歓迎会や、3回のゴルフプレー等至れり尽くせりの面倒見の良さは心に沁みた。

それから8ヵ月後、忘じ難くと言えば大げさであるが、友人夫婦と4人で再度チェンマイへ行った。今回はプライベート旅行であるから当然のこと全ての手配を個人で行った。パックツアー以外経験のない僕には大変勉強になった。その時も10日間前回と同じホテルに泊まり、前回同様チェンマイ支部の方々の暖かい歓迎に頭が下がった。

今年は、シンガポールからのクルージングでプーケット島へたった一日ではあったが立ち寄ることが出来た。僕の希望はせめて半年くらいのロングステイをしたいのであるが、家内はどう考えても同調する気はない。一日何かしていなければ納まらない性格ゆえに、遊んで過ごすなど到底出来っこないからである。譲歩しても2ヶ月以内のツーリストビザでの滞在になろうが、それも現実味ないのでは、夢もこれまでかと諦めが先にたってしまう此頃である。それでも家内はチェンマイの町には思い入れがあるらしく、もう一回マッサージに行ったり、ソンテウに乗ってワローロット市場へ行きたいなどと口走ることもあるので、来年早い時期までにもう一回はチェンマイ訪問が実現出来るのではと、これが僕の一番の楽しみになっている。

今回の会合は東京の本部から理事長と理事の2名が出席、加え熊本から選ばれている副支部長夫妻の熱心な活動により、海外暮らしに興味のある方々の参加を呼びかけたところ20名弱の参加があった。過去にない取り組みらしく、この会の広報活動の一助になった。僕は家内と鹿児島を午前6時半ころ出発して、チェンマイへ共に旅行した熊本の友人夫婦を誘い合わせ、会場つくりの手伝い程度しか協力できなかったが、会社勤めの時代と違いなんとなく楽しげに仕事が出来たし、友人も同じようなことを思ったらしい。4月から加入した別の友人夫婦は、急用で参加できず残念なことであった。

理事長からはこの会の目的と活動内容、さらには本人がロングステイしているハワイの情報を、理事からはチェンマイでの情報、特に何をして過ごしているのかと、生活費にいくら掛るのか等皆が一番知りたいことなどの発表があった。

会議前のオリエンテーション

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理事長による報告

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「南国暮らしの会」の会員数、支部

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生活費については2人で1ヶ月17万円くらい必要で、日本とチェンマイの航空費用を計算に入れると、最低4ヶ月滞在しないと年金だけでは暮らせない等現実味のある話もでた。

バンコクで日本語教師をしている会員からは、兎に角暑いが、物価は安い、人柄は良い、果物は美味い、食べ物も美味い、ゴルフは安く出来る、交通事情は良いなど、惚れ込んで生活していることが発表され、チェンマイと日本を行き来しながら夫人と共に生活を楽しんでいる会員からも、ほぼ良い事尽くめの暮らしである事が紹介された。この方は我々と最初に下見旅行をした仲間であるが、その10日間の間に、賃貸コンドミニアムの契約をしたくらいチェンマイに嵌り込んだ人で、その決断力には驚かされた。

チェンマイについて支部会員の報告

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理事によるチェンマイの日常生活について

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バンコクの日本語教師である支部会員からの、バンコクの下町生活についての報告

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その後各会員からは、司会者からの質問に答える形で南の国に対する憧れとか、熱い想いなどや体験発表が行われ、さらにはオープン参加した方々との質疑応答があり、あっという間の3時間が過ぎた。夜は会員だけの飲み会があり、和気藹々のうちに第一回の情報交換会(報告会)を終えた。

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2009年4月 4日 (土)

本年最初の史跡廻りを・・・・

加入している歴史愛好会「鹿児島史談会」の本年初の史跡廻りに、家内と共に参加した。家内は会員ではないが、僕をこの会に誘ってくれた方の夫人と家内が小さい頃からの友人であり、夫人も参加する旨の連絡を受けての夫婦参加となった。市営バスを借り切っての旅行で、補助椅子を使わねばならなかったことを思うと、かなり人気のイベントなのかも知れないが、入会間もない僕には判らない。確か51名の参加者で20歳台と思しき人も参加しており、女性も14名の参加があった。

今回の案内ハガキには「渋谷五族史跡廻り」と記されていたが、恥かしいかな渋谷五族といわれても何のことか判らない。ただ、訪ねる場所がよく聞く地名であったので、地域はおおよそ特定できた。先輩とイカ釣りに行くときに通る町も含まれていた。

今までの経験上、バスに乗れば大抵の場合、女性の声で挨拶と決まっていたが、今回は男性年配者の挨拶で始まり、高速道に乗り5分も経たないうちに、今回訪問する地域に就いての歴史講話が始まったのである。40分位の間に、自分の得意分野(古代、中世、近世等)について3人の方が代わる代わるマイクを握り歴史を語るのである。さすが歴史と言う趣味を同じくしている方々の旅行はこのようにあるのか、驚き入った次第であった。

薩摩川内駅に到着すると、本日最後の訪問予定地である川内市入来町を含む一帯を、中近世を通じ620年治めた一族の末裔である入来院ご夫妻が待っていて下さり、最後まで同地域の歴史について補足説明を頂いた。

頂いたリーフレットからの抜粋であるが、「渋谷五族とは鎌倉時代、相模の国渋谷荘司平姓渋谷 光重は宝治元年の三浦・千葉両氏討伐の戦功により、千葉氏の旧領の北薩の地頭職を獲得した。彼は六子中次男以下を薩摩に下向させたが、年齢順に実重を東郷に、重保を祁答院に、重緒を鶴田に、定心を入来院に、重貞を高城に各地頭として入部させた。この渋谷一族は川薩地方全域を領有することになり、長く威勢を振るったので、世にこれを渋谷五宗と呼んだ」とのことである。今回はこの、5つの地域に残る史跡を訪ねる旅であった。なお、ここで言う川薩地方とは川内(現薩摩川内市)と薩摩地方を総称した表し方である。

最初に訪れたのは市街地から近い高城(タキ)氏の墓と神社で、その神社は高城神社と呼ぶ。

高城二代の重誠を祀る高城神社

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熱心にメモを取る会員達

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東郷氏所領の史跡に移動中、パトカーから火災発生で今は殆ど使ってない山道を通るように指示されたため、残念ながらそこは通過せざるを得なかった。散り際であったが、あちこち桜花が車窓から眺められた。

次に訪ねたのは祁答院氏が治めた所領の史跡で、川向に居城であった虎居城を眺め、往時を偲び同氏の墓を訪れた。

虎居城跡

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祁答院氏の墓

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昼食は宮之城の道の駅と思しきところで採った。低料金で実に美味いバイキングを戴いた。少し後ろめたい気がしたが、知り合いのHさんと二人ビールもこっそり。このあと祁答院氏の墓を訪ね、鶴田氏が治めた鶴田城跡付近に向かった。

鶴田城遠望(正面の竹林)

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渋谷五族は下向以来渋谷党としてお互い結束し協力しあったが、四代重成のとき島津しの内紛に巻き込まれ分裂、鶴田家は他の四族と戦い敗北し断絶した。(鶴田合戦)

鶴田合戦の供養塔(首塚)

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次は、同乗されている入来院ご夫妻の住居である、薩摩川内市市来町を訪れた。そこには来訪者の為にボランティアの案内者が待機しておられ、二手に分かれ史跡を案内していただいた。

いくさ墓(逆修墓)・・・・戦乱の世、出陣するとき死を覚悟して生前に自分の墓を作ることがあった。これを逆修墓と言う。

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清色城跡に建てられた小学校

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ひとつばの一種らしい?(昔の武家屋敷跡に育つこの威容)

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堀壷(ほりつぼ)・・・・塵を集めて焼いたというが、本来は身を隠すところなのではとの説明であった。

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一番最後は入来院さんの住宅へお邪魔した。写真は住宅のかやぶき門で、鎌倉時代の武家門を現在まで守ってきたとのことである。

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帰りのバス車中でも、相変わらず歴史に関する会話が続き、その研究熱心に驚くと共に、頭が下がる思いであった。集合地まで多分2時間以上掛けてこられた方もあったらしい。そこまでの熱心さは僕にはないが「知るは楽しみなり」を実感した一日であった。最後にいくさ墓にひっそり咲いていた「しゃがの花」を添える。

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