5回目を迎える従兄妹会に参加するため、15日家人と共に宮崎市へ向かった。最初30名近くで始めた会であったが、死去したり病の為に参加者が減り、今回は20名の参加であった。本家に挨拶と墓参をしたあと、従兄弟の一人と会場へ向かった。
それでも20名の従兄妹会は、多い人数らしい。平均年齢は優に70歳を越していて、僕は若い方に属しているみたいである。昨年までと違い、今年はかくし芸やカラオケが少なく、話し込む人達が多い。同じ宮崎市に住んでいる人達も、この会でしか顔を合わせる機会が無いと言う人達が多くなったと言っていた。高齢になり車の運転が出来なくなったり、訪ねて行く体力が衰えたことも一因らしい。会う機会が少なくなり、近況を伝え合う時間が多くなった事が、演芸の時間を少なくしたようだ。
それでも最後は昔の歌が中心の歌謡ショウが始まり、僕も弟と並んで裕次郎の歌を、家人とデュエットをして役目を果たし、3時間に及ぶ従兄妹会を終了した。
歴史好きの従兄弟の家に泊まり、彼の勧めもあって翌日は西都市にある”西都原古墳群”を訪ねることした。このブログでも何度か触れたように、近年僕は考古学に興味を持ち出した。以前からこの古墳群については知っていたが、訪れたことはなかった。是非古墳群を見たいと思い、従兄弟から資料を貰って宮崎市を抜けて、55分後には同所に到着した。
西都市街地から緩やかな勾配を上ってゆくと、そこは広大な台地になっていて、大きな古墳が一つ、二つ見え始めた。緑の草原と表しても良い様な見渡す限りの緑に混じり、未だ満開を迎えていない広いコスモス畑もあった。
この広大な面積と古墳の規模に適している規模だと言えば言えそうだが、これだけ立派な建物が、地方都市に本当に必要なのかと思わせる規模の建物が”西都原考古博物館”であった。霧島市の上野原遺跡も立派な建物であるが、展示品は物量的に比較できないほど多かった。
西都原考古博物館入り口

上野原でも同じように感じたが、ここでは大袈裟に言えば更に数日通わないと全てを見終われないと感じた。事実、館内の展示物は半分程度しか見ることが出来なかったので、後ろ髪引かれる思いで帰らざるを得なかった。
規模の大きさを列挙すると、古墳群全体の広さは東西2・6キロ、南北4・2キロ。古墳群全体での総数は311基で、内訳は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基である。標高は約60メーター程度であり、広大な広さと古墳の多さが想像できるであろう。
展示物を見ていくうちに、どうにも来館者に対するサービスが欠けている事が気になりだした。数多くの展示物をガラスケースに入れて展示しているのは、上野原遺跡も同じであるが、展示品に対する説明書が全くと言ってよいほど無いのである。上野原遺跡のそれは、確実にガラスケースのどこかに貼ってあり、それを読むことで理解出来た。
展示物は多岐に亘っており、縄文時代以降の土器や刀剣類、馬具の装飾品などなど。フラッシュ禁止であったが、無しでも結構綺麗に撮れたのでかなりの枚数を撮った。
土器類

磨製石斧と石包丁

舟形石棺・・・・蓋欠損の状態で1・5トンの重さがあり、高鍋町で出土した

ガラス製、ヒスイ製の勾玉

刀剣と馬具

何と呼ぶ品物なのか・何の為に使うのか・何時の時代なのか・何処で発掘されたのか等々知りたいのであるが、説明が無い。たまにはケースの横に大きな説明板があり、それを読んだ後展示物を見るような仕組みになっているコーナーもあったが、急いでいる人には、その膨大な説明を読む時間の余裕が無い。せめて要点だけでもまとめて記述されていれば、それを読むことで理解を深められるのだ。
僕は受付の女性にその旨を伝えた。聞いてみるとそのような要望は結構あるそうだ。「あれば何故改善しないのだ」と畳み掛けたら、まず「ここを作った当時のコンセプトが、考古学の素人でなく、幾らか知識を持った人を対象にした」と、聞くに及んで怒りがこみ上げてきた。女性は決して横柄でなく、物静かでにこやかな人であったから、人柄からして推して正直に答えたのであろうが。
その後に「そのような声が多いので、最近徐々に説明文をつけるようにしています」と答えた。又来てみたいと思っているので”今後の為”と思って苦言を呈したのだが、「今度お出でになるときは、多分変わっていると思いますので、是非お出でください」と言われ、期待が持てそうであった。結局半分程度を見ただけで、2時間近い見学を終え、今度は古墳群を見学するべく、ガイダンスセンターへ向かった。
車で移動しセンターへ着いたが、この時間は家族連れの人達で賑わっていた。貰ったリーフレットに見学できる古墳が示されていたので、センターで場所を聞いてそこへ向かった。好天のため汗が出て気持ち悪かったが、出来るだけ多くを見たかったので、急ぎ足になるのは仕方ない。4箇所が見学可能だあったが、そのうち3箇所を見学することにした。
台地に広がる草原とコスモス畑

一つ目は、”鬼の窟(いわや)”と呼ばれる206号墳で、6世紀後半に造られた円墳である。周囲に土塁を廻らせた国内唯一の特色ある古墳だそうだ。開口した横穴式石室内部を見学した。見学者は少なく、僕等のほかに若いアベックが1組いて、若いのに似ず向こうから話かけてきた。案内書によると、西都原古墳群で唯一横穴式石室を有する古墳で、最後の首長墓とされている。
鬼の窟

鬼の窟の石室

次に見たのは”酒元ノ上横穴墓群”と称される、7世紀全般に造られた6基の地下式横穴墓が、天井に土を盛り、その上に草を植えたドーム状の建屋で覆われていて、発掘された状態で墓を見学できるものであった。
酒本ノ上横穴墓群・・・・7世紀前半に造られた

ここでもさっきの若いアベックに会った。余程関心があるのだろう、熱心に見学していた。見学者は他にもう一人いただけで、多くの人たちは多分、この台地の広場で遊んだり、物産を買うためにきているのであろうか?
そこから2~300メーターの距離に13号墳はあった。ここには誰一人見学はいなかった。近づいたら、そこかしこ大小の古墳がある。これほど多くの古墳を見たことは当然無い。僕は何度もシャッターを切った。誰もいないことが、かえって神秘的な気持ちにさせて、暫しロマンに浸ることが出来た。4~6世紀に生きた人がここに眠っていることを想像すると、厳かな気持ちになるのは当然であろう。
13号墳

古墳群

同上

リーフレットには見学可能であると書かれていたが、僕は入り口さえ発見できず、周囲200メーター程度の古墳を1周したが、何も見つけることが出来なかった。運が良ければ案内のボランティアがいて、彼らが案内してくれるらしいが、運悪くその日はいなかったのであろう。案内書には、13号墳は前長79・4m、高さ8・9mの柄鏡(えかがみ)式前方後円墳で、主体部から国産の三角縁三神三獣鏡(さんかくぶちさんしんさんじゅうきょう)や勾玉、武器が出土したと書かれていた。
汗をかきかき周囲を歩き、古墳を見ながら写真に収めた。チャンスを作って再度来たいと思う気持ちは強いが、可能性としては次回の従兄妹会を利用することになりそうだ。消化不良気味の見学ではあったが、来て良かった。宮崎の空は青く、明るい。熊本に住んでいた子供のころ、一家で父の故郷である宮崎に来たことが何度かあった。宮崎駅からバスに乗り父の出身地である高岡へ向かうとき、子供心に「宮崎の空は綺麗だ」と思ったことを思い出しながら、当日も晴れて明るい空を見ながらハンドルを握り、自宅へ向かったのである。
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