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2012年1月

2012年1月30日 (月)

長島町の”すいせんウオーク”に参加した。

1月28日に行われる、鹿児島県長島町のウオーキングに参加しないかと、友人のSZさんから誘われ、二つ返事でその日を待った。去る8日の菜の花マラソン以来、余り出歩いていないので楽しみでもあったが、天候も気になっていた。僕にとっては始めての、公式ウオーキング参加である。

年初から風邪を引き、今まで考えもしなかった、風邪やインフルエンザに対する怖さを少しずつ感じ始めていたので、悪天候の場合は強行するのかどうかも正直気になっていた。何と言う皮肉、当日の予報は雨のち曇りで、その前日と翌日は雨のマークは無かった。

外を見たら雨であった。予報を信じない僕も、目の前に雨を見れば、「今回は当たった」と諦めざるを得ない。それでも約束の7時20分に、家人も一緒にSZさん宅に着いた。同行者はSZ夫妻と僕等夫婦、元小学校女性教諭のOZさん5人で、SZさんは大事をとって高速道路を使うという。僕は何度も行った事がある町なので、一般道で良いと言ったが、彼の車に乗せてもらうので従った。

北西方向に位置する町なのだが、高速道は一旦南東方向に進み、そこから北上する。串木野市、薩摩川内市、阿久根市と進むうち、何と阿久根市の道の駅に着いた頃は、曇り空に変わった。やはり予報は当たらなかったのである。寒さに備えネックウオーマーや、手袋も持参していた。ラジオ、デジカメ、ケイタイなどを収納するベストも、余計に着込んだ。

”すいせんウオーク”と銘打った長島町主催の第6回ウオーキングは、12キロの部と6キロの部に別れ、担当者に聞いたところによると、参加者は1,500人弱で、人数的には6キロの部が多いらしい。12キロの部には600人強がエントリーしたらしい。昨年は全参加者1,000人程度だったのに、急に1・5倍に増えたので、トイレの対応が上手く行かなかったと、担当者は嘆いていたが、増える一方の大会に、満更ではないような喜びの顔であった。一番安堵したのは当日の天候であったろう。雨なら参加者も激減したろうし、曇りの天候に胸を撫で下ろす職員の姿が想像できた。経済効果も結構あったはずだ。

SZさんの幼馴染である、同姓のSZさんも一緒に歩く事になっていたらしく、受付場所で挨拶を交わした。既に参加費とか食事代金は振り込んでいたので、受付では確認カード(折り返しや、ゴールでの確認印)を貰い首から提げた。

大勢の人たちがスタート地点に屯していた。マラソンと全く違った雰囲気であった。順位を競うわけでもないので、殆どがリュックを背負い、着膨れした格好の人も多く、中にはステッキを持っている人もいる。準備体操やランニングなどする人もいないので、リラックスした雰囲気であった。

主催者挨拶の後、15分遅れて先ず12キロの部が出発、その後反対方向に6キロの部が出発することになっていた。僕等12キロの部は全員ゆっくり歩き出した。片側だけにある歩道を長蛇の列を作って歩いてゆく。

信号や横断では警察官や町職員が誘導するし、パトカーや庁有車が頻繁に行き来して、安全は十分に確保されているように感じた。海沿いの国道を歩くので、比較的凪いだ海が良く見えた。船の往来も楽しめ、北西方向には天草の牛深地区が近くに見ることが出来た。僕は動画を撮る為に彼らと別れ、前後しながら撮影して歩いた。

”すいせん”の冠が付いているので、道路のいたる所にすいせんが植えてあり、目立たぬまでも、花々は和やかな気持ちにしてくれる。10年位前から島に植え始めたらしい。(現在は橋で陸続きになっているが、以前は島であった)参加者の年齢は老若男女、あらゆる人が歩いていて、4歳の女児も健気に歩いていた。山の頂きには発電の為の風車が、ゆっくり回転していて、周囲が海であるから、山があっても開けた明るい雰囲気であり、”こんな所に住んでみたいなー”と思わせる力を持っていた。

6キロの折り返し地点”長崎鼻灯台”では、カードに確認印を押してもらい、幾張りかのテントでは蒸かしたジャガイモ(この町はジャガイモが特産品)やバター・お茶の接待があり、多くの人が座ったり立ったりして、バターをつけた熱いジャガイモを頬張っていた。トイレも長蛇の列が出来ていた。僕らは記念の撮影をしたり、灯台や海を眺めたりして、殆ど最後尾に近い順位で折り返した。

風はあったが、僕は2キロ地点から汗が出始めたので、上着を脱ぎ腰に巻いて歩いていた。風が心地よかったが、冷えた汗で風邪を引くのではと、心配もした。とうとう風邪の心配をする年齢になったかと、情け無い気持ちにも襲われた。

休憩も含め、丁度3時間でゴールした。1時間4キロのペースであるが、女性を含め全員疲れた様子は見られなかった。ゴールの印鑑を押してもらい、抽選会に行ったが、景品は最下位がジャガイモ5キロの箱詰で、それより上位はそれにタイやヒオウギ貝、野菜詰め合わせ、生菓子、漬物セットなどが付くもので、「1,300円の参加料は取り戻したぞー」などの声が挙がっていた。

僕の好きな湧水町も、町起こしに熱心であるが、この町も同じように熱心であることは、今回のウオーキング、11月予定のランニングや、3~5月に行うフラワーフェスタ等の計画を見ると良く判る。それに引き換え、僕の住む姶良市の無策振りには腹が立つよりも、情け無い気持ちで一杯だ。

折角だからと、長島町の名所である”伊唐大橋”へSZさんの友人が案内してくれた。まさにこの大きな長島と小さな伊唐島を結ぶには不釣合いな、巨大な橋に驚き、交通量の少ない橋の上に駐車して、橋をバックに記念撮影などをして帰途に着いた。

姶良市蒲生町の温泉に着いた5時頃から、雨が降り始めた。雨のち曇りの予報は完全に反対になり、曇りのち雨になった。予報官を敵みたいに思ってはいないが、”難しい時期の予報は当たらない”と揶揄する僕の気持ちも解ってもらえるであろう。

今まではあちこちで行われるランニングには目を向けていたが、ウオーキングも中々楽しみであることを実感した。、今後は周囲を眺めながら歩けるウオーキングの情報にも気を配り、チャンスがあれば挑戦したいと思ったものである。

出来の良くない動画を貼り付けることとする。

(なお、高校の新年会出席の為、次回のブログの作成は来月3日頃になります)

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2012年1月27日 (金)

”歴史資料館”始末Ⅱ

揚げた拳の下げ場が無く、些細な疑問がこんな騒動を惹起して、大人げない事と反省しきりであるが、ここまで縺れたのでその後の始末について記すことにした。

先方の文書を受け取る前に、責任ある立場の方と話したい旨を県側に伝え、早速了解していただき、黎明館からの電話を受けた。僕とするなら自分の疑問点を、曲解されないように直接聞いてもらうという、それだけの理由であった。

まず、電話いただいたお礼を申し述べ本題に入った。第一の疑問である「展示物を全て撮影禁止」にした理由を聞いた。

これは僕の理解とは全く違っていて、フラッシュ光での変色等が理由ではなかった。特設展示(企画展示)しているものは、他の資料館から借りているものが多く、そこに対して責任を負っているので、撮影は出来ないとの理由が唯一であることを彼は言った。何故撮影して悪いのかについては、「それが外部に流出して、何に使われるか判らないのが困る」との説明であった。これなど、善意以外に考えが及ばない僕には、どうしても理解に苦しむもので、それを悪用する事とはどういうことなのか、いまだに解らない。

「フラッシュを使わずに撮影を許可できないのか?」については、フラッシュによる展示物への被害は、禁止理由として考えていないとの前述の見解から、先方の考え方は自ずと判った。

「ここは全館撮影禁止です。ですからフラッシュを使おうが、使うまいが撮影は出来ません。ただ、館内での記念撮影については、入場時に許可を貰えば特別に許可します」が、返事であった。僕が目撃した、先生達が生徒達を撮っていた記念撮影は、特別許可を得て撮影していたのであろう。そこで、「企画展示品以外の一般展示品の撮影も出来ないのか?」の問には、次のような答えが返ってきた。

「全ての展示品の撮影には許可が要ります。一つ一つの展示物について、文書で撮影許可を提出してもらい、許可するかどうか当方で検討して返事を差し上げます。ですから暫く時間が掛かります」。僕は絶句した。これこそお役所仕事の典型ではないか。重ねて僕は問うた。「何故口頭ではいけないのか?」「後々問題が出たときの解決には、文書に残すことが必要です」が答えであった。

「そんな面倒なことをせず、展示品に”撮影可と不可”を区別しておけばよいのではないか」との質問には、「原則すべてが撮影禁止です。さらに展示物は年中同じものではないので、それは出来ない」との返事に、もう先方と質疑応答する気持ちも消え失せた。

こんなことで起こる問題とは、一体どんなものであろうか?「どうしてもこの方法しか取れないのか?」の問には、「このやり方を堅持します」と、彼は断言した。

予想したとおり「自治体によっては、資料館の展示物の撮影を許可しているところもあるが」との問には、「県とは関係ありません」と、木で鼻を括った答えであった。

「それほど撮影することを恐れるのであるなら、展示上部に小さい木片に”撮影禁止”なる上から目線の短い字句で書くのではなく、企画展示室の入り口に看板を出して、”このような理由により、撮影をご遠慮ください”と、禁止の理由と優しい言い回しで書いておけば、まず、撮影する人はいないのでは?」と提案したら、「このことには時間を下さい、検討します」と答えてくれた。

最後に「休館日のそれを知らせるテープは必要ではないか?」の問には、「何時も休館日は警備員を置いて、彼らに休館日であることを伝えさせている。あなたの時はたまたま、席を外していたのでしょう」との返事。僕は「県民へのサービスをどのように捕らえているのですか?たまたまで済ませるのは理解できない。もう少し目線を利用者に向けて、新たな来館者を増やしたり、リピーターを増やす活動が、あなた達に求められるのでは?そのためには来館を促す、優しいインフォーメーションが必要とは考えないのか」と言ったら、「検討いさせてください、結果をご連絡します」と答えた。

僕は「これであなた方には二度と電話をしません、伝えることは全て伝えたから。ただ、検討結果だけは連絡下さい」と言って電話を切った。行政の”上から目線”をしみじみ感じた、今回の騒動であった。

翌日、当館から実に丁寧な文書が郵送されてきた。写真撮影の禁止理由が、きちんと説明できなかったことのお詫びから始まり、特に写真禁止の考え方について、縷々述べてあった。正直僕の考えの至らなかったところもあり、かなり大人気ない発言をしたことを後悔もした。A4用紙2枚にびっしり書かれた内容は、誠意が感じられる内容であった。

かいつまんで言うと、展示品には館有品・寄託品・所蔵者の許可を得て複製したもの3つに大別でき、館有品は許可手続きにより許可されれば撮影でき、寄託の資料は勝手に館が許可すると、所蔵者の権利侵害に当たるので、館が手続きの仲介をして、所蔵者が許可すれば文書により許可承諾書を得て、館の仲介で撮影者へ伝えられ撮影できるという、僕が考えもしなかった複雑な手続きが必要であった。展示複製品も寄託資料と同じ手続きが必要である事も述べらていた。要するに担当者からの電話どおり、、展示品全て許可なくしては、撮影が出来ない仕組みになっているとの事である。

国宝とか世界的に有名な絵画ならいざ知らず、地方の資料館に展示した資料まで、大仰な手続きが必要になるなど、権利を主張し、侵害されれば裁判に持って行くという欧米並みの風潮が当たり前になっていく様を実感した。

ただ、嬉しかったことは僕の指摘により、「ご見学の皆様へ」という掲示板を増やし、展示解説員席の全てに新たに設置すること決め、現在作成中であること、「撮影できない理由」の説明を展示解説員・受付職員・学芸員との間で連携を密にして、共通認識として相互理解に務めたことが付記されていた。

最後に一利用者の気持ちとして言いたいことは、逸る心で展示品会場に入り、目指す資料を見たいと思う人たちが、そのような掲示板を読む余裕があるかどうかであるが、結論から言って読む人は少ないと思う。正直僕は既に何度も同館を訪れているが、その掲示を読んだ記憶が全くないのである。ケイタイにも写真機能が付き、多くの人達がデジカメを持ち歩く時代、何気なく撮影することは起こり得る事態である。どうしてもこれを防止したいのであるなら、一定時間ごとに、撮影禁止のアナウンスをした方が手っ取り早いと思うのであるが、如何であろう。でも資料館の職員達の心には、「このような資料館では撮影禁止は、当然わきまえるべき必須心得か常識であり、来館者全ての人たちがそれを共有してもらいたい」との気持ちがあるのかもしれない。なんだか、黎明館が遠いものになってしまったなー。

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2012年1月25日 (水)

”歴史資料館”始末

前回のブログについて、その始末(顛末)を記す。

月曜日の業務再開日を待って、まず鹿児島県歴史資料センター黎明館へ電話を入れた。上部組織である県の所轄部を聞くためである。ダイヤルしても、呼び出し音がなり続けるだけで、誰も出ない。多くの人が利用する公共の施設であるから、休館日なら、テープなどでその旨のアナウンスがあるはずだと思って暫く待ったが、痺れを切らして電話を切った。

その後ホームページで県庁の電話を調べ、電話を入れた。所轄課である”生活文化課”に繋いで貰った。若い女子職員が出たので、責任ある人に替わってもらおうかとも思ったが、どうせ結論は出まいと考え、彼女に先日の同館でのやり取りを事細かく話した。

当方から伝えた要点は次のとおりである。

1・展示物を全て撮影禁止にした、本来の理由は何であるか?

これについて僕は、展示物のフラッシュによる変色防止が大きな理由だと思っていたら、他にも理由があって、撮影が周りの人に迷惑であることを挙げた。更に撮った写真をネットで流す人がいるので、それを防止する意味もあるという。画像流出でどんな不都合があるのだろう。僕には理解できない。

2・フラッシュを使わずに撮影を許可する考えは無いのか?

僕は過去、資料館は何箇所か訪れ、撮影もしてきた。県下の資料館はこのことについての統一した見解は持っているのか?禁止しているところもあったが、黙認しているところも、或いはフラッシュを使わない条件で許可したところもあったと記憶している。だが、「県下にある自治体管轄の資料館と、県は関係ない」と言うのではとの予測はついていた。

これについては一考の余地があると思うので、上司や黎明館側と相談してご返事したいと彼女は答えた。

3・館内全てを撮影禁止にした理由は何故か?展示物や場所によって、緩和しても良いのではないか。

これについても即答できないので、ご返事したいとの返事であった。

4・休館日における黎明館の電話に、休館日である事や、その他のインフォーメーションテープを使うべきではないのか?僕は思いあがりも甚だしいと思っている。民間企業では、こういう気遣いのない姿勢で営業しているなら、とっくに淘汰されて生き残っては行けない。目線が利用者を下に見ている証拠である。

これについては、彼女は全く異議を唱えなかった。これも2と同様に後刻返事をするとの事であった。

5・全館撮影禁止なのに、何故小学生の先生による記念撮影が許され、僕の場合には許されなかったのか?

彼女は一言も無かった。

以上を伝え、責任ある地位にある人から電話を貰いたいこと、それが出来なければ文書でもって回答いただきたいことをお願いして電話を切った。相手は僕の電話番号を聞き、後日連絡する事を約束してくれた。

年に多くて数回利用する程度の同館の些細な疑問に対し、目くじら立てる必要も無いのかも知れないが、県内外の住民が利用する公共施設であるから、看過するべきでもないと思い、敢えて食い下がったのである。

2日後に県から連絡があった。黎明館から文書で持って回答したいとの事であった。僕は文書では、中間に県の担当者が介在しているし、多分紋切り型の回答しか出来ないと確信しているので、文書は受け取るが、直接責任者と話したいと告げ電話を待った。5分後に黎明館の上層部(敢えて職名は伏せる)から電話が来た。

電話でのやり取りは、文書の内容とともに、次回のブログで記すことにしたい。

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2012年1月21日 (土)

歴史資料館での出来事

この映画は是非観ようと決めていた。ブログにも書いたと思うが、僕は映画が大好きで映画鑑賞を一つの趣味にしている。DVDによる映像も含めると月10本以上観ている計算になるだろう。

今年最初の映画鑑賞である。大画面で音響効果抜群の映画館は、家庭でプロジェクターを使ってのDVD映画と比較することが出来ないくらい、観る前から期待と興奮で一杯である。映画はオダギリジョーとチャンドンゴン主演の”マイウェイ”で、副題として”12,000キロの真実”が付けられている。

5年間、12.000キロを日本・ソ連・ドイツの軍服を着て闘い生き抜いた人間の、事実に基づいた物語である。確かにスケールの大きさでは群を抜いていて、そのリアリティーは注目に値する。ただ、音響効果が良すぎて、例えば殴り合いなどはその殴った音が、誇張しすぎて却って不自然さを思わせる。半分以上が戦闘シーンで、残虐性で目を瞑りたくなるシーンもあるが、全体的に見て推奨に値する作品である。

本日の主題は映画ではなく、映画の前に行った”鹿児島県歴史資料センター黎明館”についてである。前々日のTVで、同館の企画展として”縄文人のこころと祈り”と題した、土石器の展示があることを知った。何度か触れたように、僕は考古学講座を3年間受講していて、当然興味を持っているので即座に見学を決めた。

映画は12時20分からなので、2時間以上の余裕を持って9時半に同館に着いた。3階の展示場には、形に残らない”縄文人のこころと祈り”を知る手がかりになる、土偶や石刀などの実用を離れた土製品や石製品が展示されていた。

僕の目当ては展示品の内、僕が住む姶良市で出土した、水銀朱を施した注口土器であった。あの時代に塗った朱が、この時代まで着色している事実を目で確かめたかった。

早朝であった為か、客は僕一人であった。受付も所在なさそうに、薄暗い場所で独りぽつねんとしていた。ボールペンは常に持参しているが、メモ用紙を忘れたので彼女に貰った。当然必要事項をメモる為である。

説明版に書いてある文を書き写すのは面倒であるから、観光地などではデジカメで撮り、それを利用することを常としている。僕も今日のような展示品のある場所でフラッシュを焚くことは、許されないことは承知であったが、正直なとこフラッシュを焚かなければ良いだろうと軽く考えていたので、朱の付いた土器1枚だけは隠れてでも撮りたいと思っていた。

確かに撮影禁止の札が、背丈より上の方に貼ってあった。気にしながらその土器と、説明文を2枚をオート撮影した。この明るさでは撮影できないと思って、オートにしたのである。当然フラッシュが焚かれた。心の中に後ろめたさもあったが、2枚程度ならと思い切ったのである。

注口土器・・・生命に活力を与え復活や再生を意味する「赤」。血の色、太陽や炎の色を表している・・・・ベンガラや朱によって彩色され、赤は祈りの色といわれる。この土器は水銀朱を施した土器としては九州最古である。多重沈線を用いた文様から近畿地方から搬入された土器らしい。

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物音一つしない静かな会場に、デジカメのシャッターを切る電子音が確かにした。だが、フラッシュは部屋の外にいる女性係員には見えない。あの小さな音が良く聞こえたものである。聞き耳を立てていたのではと、疑いたくもなるその早さであった。2枚目を撮り終えたとき、コツコツと足音を立てて彼女が入ってきて事務的に云った。

「お客様、ここは撮影禁止になっていますので撮影されませんように」。「申し訳ない。どうしても1枚欲しかったもので」。ところが一瞬僕の心に「一人くらい見て見ぬ振りすればよいものを」という気持ちが起こり、素直にそれを聞くことが出来なくなったのである。「でもねー、僕はあちこち何箇所も資料館を廻っているが、土石器を撮影してもそんなに目くじら立てて、言われることは無いよ。何故ここだけ厳しいんだ」と、言わずもがなのことを口に出してしまったのである。

「いえ、決まりですから」。、「解った。僕が悪かった」。でもここで引っ込んでしまうのには癪であった。僕は説明文の中に助詞の使い方が可笑しいところを発見していたので、「ついでに指摘しておくが、この文のこの助詞の使い方はおかしいぞ」。「それは係に伝えておきます」。少しは溜飲を下げられると思ったが、事務的な彼女の言葉にムカムカしてきた。それでも折角だからと1時間程度土石器を見て説明文を読み、2階に下りた。

そのとき子供達の声がしてきた。修学旅行か校外学習であろう。小学生達が数十人で階段を上りながら僕に挨拶をする。僕も「おはよう」と挨拶を返した。2階に降りた時、そのフロアを見学していた先生2人が、2箇所で子供達の記念撮影をしていて、フラッシュが光った。

確認の意味で僕はそのフロアにいた女性職員に聞いた。「ここでは全館撮影禁止ですか?」「はいそうです。撮影は原則禁止になっています」。僕は彼女も見ていたであろう先生達の撮影には一切触れずに、次のように云った。

「折角展示物を見に来たのであるから、興味のあるものを映像に残したい人もいるはずだ。有名な絵画であるなら、それはフラッシュの光で影響も受けるから当然禁止だろうが、長年風雨にさらせれた例えば”田の神さー”等はフラッシュを浴びたくらいで、なんの影響があるのだろう。全て禁止にするのは如何かなー。例えばフラッシュを焚かないで撮影を許可することも出来るのではないか。お客からこのような申し出があったことを上司に伝えて欲しい」と述べて同館を後にした。僕と彼女の前のフロアには、興味ある”田の神さー”が幾つか展示されていて、心中何とかして撮影したかったのだが、厚かましい僕もとうとう出来なかった。

事実僕は同所と同じ土石器類を、幾つかの展示館でフラッシュを使って撮影してDVDに保存している。あるところは「フラッシュは使わないで下さい」との断りで許可しているところもあったと記憶する。

折角意気込んで行った勉強に水を差された僕は、この確認を県にしたいと思っている。当然そのときは、記念撮影をしていた先生達の話も出すことになる。文として書くには差しさわりがあり、事実かどうか知らないが、何でも”決まり”で済ませ、”前例を重んじ自分の勤めている間、無事平穏で過ごすことを念頭に仕事する行政職員”と揶揄される彼らが、どんな返事をするのか楽しみである。断っておくが、全ての職員がそうであるとは僕は思っていないので誤解なきように。

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2012年1月18日 (水)

”何となく気が乗らない”日はどうすれば・・・・?教えて!

つい最近まで僕は倦怠感とか、疲労感を感じることは少ない方だと思っていた。事実そうであって、「疲れた」など口にすることは殆ど無かったし、サプリメントとか呼ばれる補助食品を買ったことなど一度もない。でも、現在飲んでいる降圧剤や坑コレステロール剤と同じように、いずれ飲むハメになるのではと心密かに恐れているのだ。えてして神様は、このような思い上がりにも似た言葉を吐いた後に、試練を与えるようでそれが怖い。

昨日の暖かく快晴で、皆の気分が乗ってきそうな貴重な日に何としたことか、バイオリズムが最悪だったのか、いわゆる”気分が乗らない”気持ちの襲われたのだ。全身熱っぽいし、咳をしたとき頭痛を意識する。性格的に軽いので、年間を通じ、塞ぎ込むとか人と話したくない等は殆ど無いが、昨日は違った。

久しぶりのグラウンドゴルフなのに、あまり会話を続けたくない。決して倦怠感があるのではないが、笑顔が湧いてこないし、話しかけられても誠意ある返事が出来ない。皆に不快感を与えまいと精一杯の努力をしたが、キリの良い途中でプレーを止め帰宅した。

高血圧治療中なのに3~4日前から、飲酒後に目が霞み、血圧を測ったら今まで経験したことのない100以下の低血圧の数字に驚き、かかりつけ医で診てもらったら、飲酒後に血管が広がりそんな症状はあるからと、今より軽い降圧剤を処方された。今思うと、この不安が大きな原因なのかもしれない。

もしや風邪を押して出場したマラソンの疲れではと思ったり、もう2ヶ月もゴルフをしていないからストレスが溜まったりしているのではと思ったりしても、何が原因なのか判らない。「思ったら即実行」を心に決めてから数年経つが、今日も気が乗らない。皆さん、こんな気持ちの日は如何されているのでしょうか?

昨日は帰宅後、あまりの好天に「海でも見るか」と思い直し、独り自宅から数キロの加治木港に行った。ブログに登場するH船長と船釣りに出る港である。車内は暖かすぎて、当然暖房など不要である。綺麗に整備された港では運搬船が3隻が荷揚げ作業をしており、錦江湾に延びた突堤では多くの釣り人達が、”サヨリ”や当地で”アメイオ”と呼ぶ小魚を釣っていた。実に平和で和やかな光景にシャッターを切った。

好天のもと、釣り糸を垂れる釣り人達

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綺麗な釣り場・・・マナーの良さが偲ばれる

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釣りのマナーの良さにも驚いた。釣り終えた人達は車に積んだ箒を持ち出し、散らばったチリを掃き、海水で流しているのである。こんな光景を見て心も和んだ。今年と言っても未だ半月程度であるが、既に100回以上も爆発的噴火を続けている桜島は、本日も噴煙を上げていた。何時かは”YOU  TUBE"に桜島の噴火をアップロードしたいと思っていたのでチャンスを覗ったが、僕がいた間に小規模の噴煙をしただけだった。

小爆発をした桜島

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ふと別なことを思い出した。ここからそんなに遠くない場所に、”田の神さー”と当地の人が呼ぶ、有名な田の神があることを以前聞いていた。ここも何時かは見たいと思っていたので、人に道を尋ねながら訪れた。高速道路”加治木インター”近くの、竹林の登り口にそれはあった。笑った顔に特徴があった。

以前にもこのブログで幾つかの”田の神さー”を紹介したが、時間があれば鹿児島県内のその多くを見たいとの希望を持っている。焦らず欲張らずに、名所旧跡・古墳とともに可能な限り訪ねたいと思う。

日木山の”田の神さー”(右側)

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その説明

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昨日はこんなことで塞ぎ込んだ気持ちも、後半少しは晴れてきた。いわゆる”乗らない気持ち”と、「あれもしなければ・これも」との気持ちは、正反対なようにも思えるが、焦燥感が障害になり却って気の乗らない気持ちになっていたのではと、反省しきりであった。だが、「やりたい事と残された時間を天秤にかければ、時間が少ない」のが正直なところであろう。

いまさら詮無い事ではあるが、この年になって初めて「見たい、聞きたい、知りたい」の気持ちが高まった事は、時間を無駄に使って来た罰を受けている現在と共に、将来を見通せない無計画人生の”バカの知恵は後から”を地で行く、僕の頭の程度を確認することになった。それでも、焦らず思うところを一つずつこなして行こう。僕は僕でしかない。今日は実にしんみりした、面白くも無い文を書いてしまった。

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2012年1月14日 (土)

有効期限4年の運転免許証・・・知らなかった

誕生月の1月は5年毎の運転免許証の更新月でもある。自分では若いと思っていても、法律の定めにより更新年に70才を超えると、事前に最寄の自動車学校で実技と法令の”高齢者講習”を受講して、受講証明書を貰いそれを添付しなければ、更新が出来ないようになっている。僕は既に昨年10月にそれを済ませていた。

更新は最寄の警察署でも出来るが、そこでの更新には免許申請用の写真が必要である。面倒だし鹿児島市内に用事もあるので、早起きして8時前には自宅を出て、鹿児島南部のはずれにある交通安全教育センターへ向かった。何時でも受付可能だろうと思ったが、前日念のためハガキを読んだら、受付時間は日に2回で、しかも08:030~09:30と13:00~14:00のたった2時間であることが判った。

理由は判らないが、僕らみたいに地方から出てくる者にとっては、1回目に遅れたら3時間以上も無駄な時間を過ごさねばならない。約1時間かけてセンターへ到着した。指宿市へ通じる幹線道路なので、かなり混んでいて遅延が気になりイライラもした。

館内はごった返していた。受付が1時間限定だから当然であろう。男性の係員が手際よく大声で手順を説明してくれるので、進行は意外とスムーズである。諸費用を納入したら、実に実に簡単な手足の機能をチェックする、「お手手ぶらぶら」と「足踏み」をさせられた。その間30秒程度。この程度が出来ない人はいないと思うし、不要な検査だと思っても決まりだから僕もした。

写真もデジタルで写してくれた。笑っていいのか、真顔で写るべきか迷ってその中間的な顔を作った。余談であるが僕はかなり前から、写真は笑って写るように強制的に笑顔を作るようにしている。理由は簡単。「笑う門には福来る」である。土台が土台で崩れているから、無理して笑う必要も無いのであるが・・・・・。

この間、45分程度。最後は出口に係員がいて、受け取り場所へ案内してくれた。高齢者講習を受けたことが、持っていたその証書で判ったのか、僕一人を「どうぞ、ご案内します」と、不気味なぐらいの親切な言葉使いで連れて行ってくれた。

その頃は、あれだけ多くの人たちが何処へ行ったのか不思議に思うほど、ホールは閑散としていた。多分講習を受ける為に、別の部屋に移動したのであろう。僕は既に高齢者講習を自動車学校で受けていたので、後は免許証を受け取るばかりである。

待つこと5分、係員から呼ばれた。手続きの時「今度の免許証はICチップが埋め込まれたIC免許証です。この免許証には4桁の暗証番号が二つ必要です」と言われ、既に申告は終わっていたが、ここでも同じ事を言われた。どうにも僕には解らなかった。ハガキには”IC免許証は偽造免許証の防止や、個人のプライバシーを保護するものです”と書かれていたが、それはそれで大事だからこの文は理解できるが、”暗証番号を設定しないと、ICチップ内の個人情報が他人に読み取られる可能性があります”とは、如何なることか?

個人情報には何が書かれているのかの説明は無かったし、僕もそれを聞こうとも思わなかった。免許証には本籍以外、住所・氏名・生年月日など前の免許証と同じ情報が書かれていた。個人情報とは、何回か違反をしたのでその内容なのかな?

更新で知ったことは、このタイトルの如く、有効期限が4年であったことだ。去年高齢者講習に集まった人たちから、「過去に優良運転者は有効期限が5年だったけど、高齢者はいくら事故や違反をしていなくても3年らしい」と聞いていたので、ハガキを受け取ったときは「ひょっとしてミスプリントか?」とも思い、直ぐ免許証のそこを確認した。

確かに有効期限は4年であった。「何も中途半端な数字にせずに、5年でも良さそうなものを」と呟いたが、3年より1年多かったから良しとすべきであろう。区分に”優良”と書かれていたので、ひょっとして違反や事故を起こした人はそれより少ない期限だったかもしれない。確かに僕は昭和57年以来無事故・無違反だから”優良”なのだろう。だが交通違反は何度も犯したから、それには”運良く”という但し書きが付くのが真実だ。

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2012年1月10日 (火)

菜の花マラソン、完走!

生涯2度目のフルマラソンは直前に風邪を引いたので、実際走れるのかそれだけが心配で、正月休みで病院には行けなかったものの、市販の薬を飲んだり玉子酒を飲んだり、マッサージ店へ行ったりして細心の注意を怠らなかった。風邪は殆ど引かないとの自惚れが、油断を招いたのかもしれない。

昨年のマラソンは知人がいなくて、誰とも話さず黙々と走ったり、歩いたりして寂しさを感じていたところ、中学時代のクラスメートが「出場したい」と連絡してきた。熊本の”パールラインマラソン”の常連で、ハーフマラソンを20数回連続で走っているベテランだが、フルマラソンは始めてらしい。「是非、是非」と、前々日は拙宅に泊まって貰い旧交を温めた。

第31回目を迎える”いぶすき菜の花マラソン”である。3年前と2年前は、フルマラソンに自信が無く、10キロに出場したが、昨年始めて出場を果たした。6時間50分で完走できたので、今年の目標を6時間30分に設定した。

受付は8日(日曜)当日でも可能であるが、何せ拙宅から遠い。おまけに車が混むので、昨年同様前日に受付を済ませるべく、家人と友人HG君と3人で姶良市から指宿市へ向かった。この大会は本年から10キロコースが廃止され、全てフルマラソンだけである。昨年はかなりの渋滞で、5時半の受付終了に辛うじて間にあった。

今年は昼食を済ませて1時には出発したので、若干の渋滞はあったものの、余裕を持って受付を終えることが出来た。何時もの如くTシャツとタオルが記念品として渡された。例年のぺらぺらのタオルが不評だったのか、今年は結構な厚さのタオルに変わっていた。4,500円の参加料ならこの程度は当たり前だろうと僕は思っているが。

僕は数ヶ月前に、全国一安いと自称している安宿を予約していた。HG君は、鹿児島市のホテルを予約したというので、指宿駅に彼を送りその足で4時過ぎ宿へ向かった。HG君は当日臨時電車で指宿市の会場へ来ることになっている。

興奮で眠れないのではと、寝る前に飲むべく酒を買い、宿の食堂でも飲んだが、9時頃床に就いたのに中々眠れず、11時過ぎ頃まで悶々としていたようだ。6時には目が覚めて朝食後、7時過ぎには宿を出た。車が混んで駐車場が確保できないので、「出来るだけ早めに」と言った警備員の言葉通り、早く出たのである。昨年まで3回は、マラソンスタート地点の真ん前にある”なのはな館”に宿泊出来たのに、昨年から休館していて泊まれず不便この上ない。

昨日とは打って変わって、曇り空でなんとなく寒々しい。HG君とは出発30分前に出会い、記念の撮影など行った後、ランナーで超満員となった列に入っていった。自己申告で7時間程度を申告していたので、HG君と一緒にその表示のプラカードの列に並んだのである。

スタート前に記念撮影(筆者右)

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最初の時ほどでもないが、大勢のランナーの中にいると、高揚感は次第に湧いてくる。事務局から挨拶と発表があった。上空ではヘリが舞っていて、低空で接近するそれに、多くが歓声を上げ手を振った。僕も真似をして手を振った。

天候は曇り、気温6度、湿度75%、風速0m、参加選手18,300(?)人,、ボランティア2,000名等々の発表があった。

渡された冊子からのエントリー記録をここで記しておく。

出場者の年齢別では

30才未満         男子3,902  女子2,387

30~50才代       男子8,149  女子2,568

60才代           男子  921  女子  201

70才以上         男子  184  女子   22

合計       男子    13,156  女子5178  男女計 18,334名

外国人も数名走っていたが、今年は表に区分計上してなかった。実際走った人の数は、翌日の新聞で17,932人と発表された。更に今年から35キロ地点(JR山川駅前)で、午後5時までに通過できなかった人は、強制的にバスに収容されることになったらしい。

走る前に彼と約束事をした。10キロ地点までは出来るなら並走して、以降は自分のペースで走ろうと。ところが僕はデジカメで動画を撮るため、2キロ程度の地点から彼と離れてしまい、それ以降彼と一緒に走ることは無かったのである。

風邪が全快していない自覚から、手袋をはめタオルを首に巻き、ウインドブレーカーを着用した。弱点の膝をカバーするためサポーターを着け、靴下の上に更に膝を押さえる長めの靴下を履いた。さらに首から提げたポシェットには、ケイタイ、デジカメ、筆記用具、ティッシュ、ハンカチ、小銭そして大事なエアーサロンパスも入れた。これで万全である。

マラソンコース

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スタートは9時であったが僕らがスタートラインを超えたのは9時11分であった。最終ランナーは30分程度後になるだろうとのアナウンスがあった。マスクもしていたので息で眼鏡ガラスが曇り、途中で止めた。HG君と雑談しながら多分6,5キロ程度の速度で走り続けた。特段苦しくもなく皆に付いて行くのは容易であった。

前半は殆どの人は歩くことなく、走りが中心である。僕は要所要所で脇に避け動画を撮影するので、その都度多くの人から遅れることになる。多分20数ヶ所近くで撮影したから、随分多くの人から追い抜かれたと思うが、それは折込み済みの時間と順位である。

ただ尾篭な話で恐縮だが、風邪による鼻汁が流れ出て、口周辺をタオルで拭かねばならなかった。やはり風邪は完治してないようだ。トイレは3キロから5キロ程度に設置され、その他民間商店が開放してくれるので困らなかったが、何処も多くの人で混んでいた。我慢できない人たちは皆が見える所でもお構いなく放水(?)していたが、当然女性はいなかった。給水や簡単な食べ物を提供する所は、数え切れないくらい多く、このマラソン規模の大きさを物語っていた。バナナ、オレンジ、氷砂糖、チョコ、飴玉、汁粉、ぜんざい、豚汁、焼きソバ、焼き鳥、マンゴージュース、綿菓子、焼き魚、黒砂糖、ソラマメ、漬物その他諸々、数え切れない種類が提供された。僕はその殆どで立ち止まりお礼を言って頂いた。

10キロ地点を10時38分通過した。スタートして1時間27分経っていたから順調である。10キロランニングでは、ほぼ1時間で走る距離だから順当であろう。15キロで11時23分(記録は全てメモしていた)だから2時間12分、かなりペースが落ちた。それでも汗をかいているので、風により冷たさを感じる程度であり、この時点では足の痛みなどは全く感じなかった。

20キロ過ぎた頃から足の異常を感じ始めた。昔から左足の半月板を損傷をしているので、昨年はそこが心配で、走行中エアーの鎮静薬を噴射し続けた。今年も当然そこが痛くなるものと覚悟したが、不思議なことに膝の痛みは無く、くるぶしとふくらはぎ、それに太ももの内側が痛くなり出した。かって経験したことのない部位である。ここで始めて不安がよぎり、「完走できないのでは」と弱気になって、家人に電話を入れた。「ひょっとすると、歩くことも出来なくなり、収容車で帰ってくるかも」。

「でも半分近く来ているのに、ここでは帰れない」と思い直し、歩いたり走ったりして歩を進めた。沿道の応援も後押しした。エアー鎮痛薬を数百メーターごとに噴射して痛みを取り、黙々と歩きそして走った。この頃になると多くの人は走るより歩く人が多くなり、当然の如く僕もそのペースになった。一番辛い距離だと思った。

途中、HG君に電話を入れた。ほぼ同じところを走っているらしい。幾らか安心して歩を早めた。殆どの場所で給水し、バナナや豚汁、ぜんざいを食して元気を付けた。だが、ペースは落ちた。25キロで1時3分(3時間52分経過)、30キロで1時58分(4時間47分経過)とペースは落ちるばかりであった。

どこかでHG君を追い抜いたらしいが、その彼が長崎鼻近くのフラワーパーク近くで再度足早く僕を追い抜いて行き、しばらく前後で走ったが、いつの間にか見失ってしまった、というより僕が遅れ始めたのである。

完走もままならない足の痛みにも関わらず、何とか昨年の時間を更新したいとの気持ちも持ち続けたが、進むにつけそんな気持ちも薄らいで、ただ歩くのみであった。気持ちは走りたいのに、足が上がらないのである。このときほど年齢を意識したことは無かった。「俺がもっと若ければこいつらには負けないのに」と、道端で休んだり、柔軟体操をしている若者を見ながら僕は決して立ち止まらなかった。何故か今年は奇抜な格好をしたり、仮装をした人が少なかった。

時折、救急車がサイレンを鳴らし通過する。当然参加している急患の為である。この日4回ほどサイレンの音を聞いた。自分では大丈夫と思い参加するのであろうが、思わぬことも起こるマラソン距離である。10キロランニングでは、まずこんなことは起こらない。

山川港に近づく高台から錦江湾が見えてきた。何かホッとした気持ちになった。昨年もそうであった。殆どの人は喋ることなく黙々と歩く。多分疲労も極限であろう。急激な下り坂も足に堪えた。この町でも多くの場所で街の皆さんが、いろいろ接待してくれた。小さな子供さんたちも混じり、御茶や水、食べ物を提供してくれた。

最後の坂は山川駅から指宿市市街地へ続くダラダラ坂である。無言で歩いている人が殆どで、時に若い仲間達が喋りながら歩いてゆく。40キロ地点で3時56分(6時間45分経過)だったので、昨年を上回ることが決定的になった。残念であるが足が上がらないので仕方ない。暗くなりかけた温泉通りでも沿道の応援は続いたが、それに応えられない自分に腹が立った。

4時の交通規制が解かれて、全員歩道を走る(歩く)ことになった。昨年は4時以前にゴールしたので、車道を走れたのであるが。                   僕は大袈裟ながら、気息奄々、ウインドブレーカーを着けマスクをした姿で、何とかゴールしたのである。今回は確かに疲れたし、足の痛みが堪えた。

結局、完走証に書かれた数字は、走行時間7時間20分51秒、18、335人中12,786位、70才以上184人中125位であった。昨年より30分も遅くゴールし、順位も多分1,000位以上下回ったはずだ。僅か1%程度(180人余)の高齢出場者数であるから、「完走できただけでも良いや」と、自己満足するより他は無かった。

家人がゴールで大きな声で呼んだらしいが、それは全く聞こえなかった。それほど疲労困憊していたのかもしれない。それでもその後、自分で運転して自宅へ帰ったのだから、回復も幾らか早かったのだろう。

疲労困憊でゴールする筆者(マスク姿)

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駐車場へ急ぐ僕達が歩く歩道を、まだまだ多くの人たちがゴールに向かっている。完走証の交付は午後6時迄である旨の放送を先ほど聞いた。何人が交付を受けられないのであろうか。折角参加しながら可哀相である。

指宿市で食事して帰る途中、HG君から電話があった。7時間17分程度でゴールしたらしく、僕より3分程度早かったそうだ。彼は経験が豊富であるが、初めてのフルマラソンはペース配分など、戸惑うことが多かったのかもしれない。無事二人共完走できたことに感謝しながら、8時過ぎても渋滞が続く国道を姶良市へ向かった。彼は今夜も鹿児島市内に宿泊し、明日熊本の自宅へ帰るそうだ。

翌日は数名の人から電話やメールを貰い、或いはジムの仲間から祝意を頂いたが、幸い風邪もぶり返さず、足の痛みも殆ど取れて通常の生活が出来るようになった。昨日は走りながら「もうこれで最後にしよう、こんなに苦しみながらもう走るものか」と思ったが、本年末に元気であれば「又、やってみるか」と考え直すかもしれない。

動画をご覧下さい。

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2012年1月 6日 (金)

孫達が帰って行った・・・・。

最近は画像のないブログが続いて、読んでいただく方に申し訳なさを感じている。興味を引く内容なら我慢も出来るが、大して面白くも無ければせめて画像でそれをカバーしてくれるので、画像のアップは大きな役目を持つ。

今回も添付する画像がない。風邪で殆ど外出が出来なかったので仕方ないが、せめて神社参拝とも思ったのにそれさえもしなかったので、外の様子を写真に収めることも出来なかった。

年末26日に帰省した娘一家が、10日間のお騒がせをして昨日帰って行った。上の孫は先月8才になった男児なので、さほど手がかからなくなったから子守に楽であったが、下の孫は2才の男児でいたずら盛りの次男坊。手当たり次第に物を投げ、障子は背丈の範囲内は殆ど破られたし、テレビに物を投げたり、スピーカーに手を突っ込みコーン紙を破ろうとするのには冷や汗物であった。

大変だったのは、掃除をしても、しても汚すし、且つ散らかしてゆくイタチゴッコの居間である。狭い家なので子供の遊び場としては、怪我が何より怖い。前回は病院を3ヶ所廻ったが、幸い事なきを得た。

一人っ子の娘しか育てなかった僕らにとって、子育て時期の思い出は鮮明に残っていないとはいえ、男児2人の行動は「これほど違うのか」と驚きである。「ま、男児たるもの、この程度はあって然るべし」と思うものの、実に気の抜けない日時であった。

「子育ては楽しいよー」と言う娘、実際は腹が立つこともあるだろうが、そんな素振りを見せずのんびり構えているのが、僕には理解不能である。家人もまさに娘と同じで、「こいつバカか」と思うほど、優しく接する。「三つ子の魂百まで」と言う、「悪いことは悪いと身体で覚えさせろ」と僕は主張するが、全く意に介さない。もう、諦めた。

決してそれが苦痛というまでではないが、泣き声の大きさには閉口した。年末に娘が青春時代を過ごした博多に行くというので、二泊三日で家人と二人で孫の面倒を見た時はかなり気を使った。保育所育ちだから後追いはしないものの、子供の泣き声は切ない。娘にバトンタッチした時の安堵感、やはり子育ては親がするものだと思った。

空港は大変混んでいた。定時午前8時発の航空機は20分遅れて、神戸へ出発した。それでも冷え込んだ鹿児島空港の送迎デッキでは、多くの人たちが出発する航空機を見送っていた。空へ舞い上がった航空機を確認して、帰りかけたとき一人の老婦人が声を掛けてきた。娘達と同じ便を見送ったらしいが、歩きながら「親子で帰省したのですが、疲れました。帰ってくるのは嬉しいのですが、2~3日ぐらいが良いですね」。すかさず「同感ですね、僕らは10日いましたよ」。

正確な言葉は知らないが「来て嬉し、帰って嬉し」と言うそうだ。さっきのご夫人の言葉を聞くまでは「俺は薄情なんだろうか」と自分を責める気持ちが何処かにあったが、「どの親も一緒なんだ」と安堵したのが正直なところである。1時間過ぎに無事到着の電話があったときは、「今度は何時頃になるのかなー」と、次回の帰省を心待ちしている自分に気付き、妙に感傷的になったのは不思議であった。

2歳児の子供を抱き、土産の入った紙袋を持って、上の子供を従えながら、中々進まない保安検査所へ向かう娘を見ながら、「母親は強し」と思ったものである。

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2012年1月 2日 (月)

風邪引きでの新年

”まさか”であった。日ごろ「俺は風邪など殆ど引いたことはない」と豪語していた僕が風邪を引いた。それも全く予兆は無かった。年末30日早朝、喉に少しの痛みを感じたが気にするほどでもなかった。

前日家人が咳をしていたので、「弱いな、風邪など引いて」なんてバカにしていたら、翌日は僕の番であった。ありがたいことに、家人は風邪気味であるが寝込むほどでもない。

頭をよぎったのはエントリーしている1月8日に行われる、”いぶすき菜の花マラソン”であった。7日は受付を済ませ、そのまま予約している宿屋に泊まる予定である。更に今回は中学時代の友人が熊本市から参加することになっていて、一緒に走ろうと約束したばかりであった。彼は6日に拙宅に泊まる予定なので、なんとしてもそれまでは完治させないといけない。

大晦日まではさほど切迫感を持っていなかった。熱があるわけではないし、その時までは咳も無かった。頭痛も無かったので少し高を括っていた。帰省した娘一家とともに温泉センターに行き、何時もの風邪治療法である、サウナで汗を流せば良くなると考え、孫とともにごった返す温泉に行った。

誤算は孫の存在であった。孫が気になってサウナに長く入ってられないのである。それでも幾らか身が軽く感じたので、止せば良いのに翌元日も家族で同じ温泉へ行った。さすがに元日は客も多くなく、8才の孫にも「少し長く入るので、自分で出たり入ったりするように」と言い聞かせ、サウナで汗を出した。

9時前には床に入った。ところが夜半に咳が出始め、中々止まらない。常備薬は胃腸薬とシップ薬はあるのに、肝心の風邪薬は持っていない。

過去に引いた風邪は、厚着をして玉子酒を飲み、一気に汗を出せば翌朝はまず間違いなく良くなっていた。が、今回は風邪の種類が違うのか、熱もない。何かしら長引きの予感がしてきた。

絶対困るのだ。今回のマラソンは昨年より20分縮める、6時間30分を目標にしているので、何としても走りたい。そのため毎日30分以上、マシーンで努力してきたのだから。過去には考えたことも無かったが、だんだん風邪が怖くなってきた。

そう云えば亡くなった親父が、風邪を一番恐れていたことを思い出した。「お前達には解らんだろうが、風邪は万病の元なんだ」と言って、冬は特に用心に用心を重ねた。。若かった僕には解らなかったが、今回は少し親父の言葉が現実味を帯び堪えて来た。

ドラッグストアに、咳止めを買いに行こうとしたとき、ゴルフ仲間の友人から誘いの電話があった。昨年11月からプレーしていないのでOKしたかった。でもさすがに今回は断った。マラソンさえなければ間違いなく了解したであろう。残念な気持ちに襲われたが、自重した。倦怠感はあまりないからプレーは可能なのだ。

風邪薬がたくさん並んでいた。総合風邪薬から、咳、頭痛、熱それぞれ単独に効く薬など、こんなに多くの風邪薬があることを始めて知った。係りが咳が主体に効くという薬を勧めたのでそれを買ってきた。

何とか早く治したい。ただ、それだけである。信心深くはないが今度だけは神に祈り頼りたい。”箱根マラソン中継をテレビで見ながらこの文を書いている。幸いなことに今正月は寒くない。風もなく穏やかな初春である。治りも早いだろう。

風引きでスタートした平成24年であるが、東日本の復旧・復興を祈りながら、僕らの一年も昨年同様”相変わらずの普通の年”であるように願いたいものである。馬齢を重ね来た僕にとっては、”相変わらず”が願ってもない一年なのである。

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