文化・芸術

2009年11月 8日 (日)

遺跡発掘を体験した。

7日は現在受講中の考古学講座、「南九州の縄文に学ぶ」の第4回目の講座で、実際に現在発掘作業中の遺跡を見学し、しかもその発掘作業を体験するもので、是非受講したいと思い、希望者募集には躊躇わず申し込んだ。

バスの定員46名で打ち切ったその全員で、霧島市から鹿児島県出水市野田町の遺跡へ向かった。ほぼ8割が女性で、そのうち多くが県立埋蔵文化センターで働いているらしい。僕等夫婦は溝辺町から、途中乗車させて貰った。

現地は西回り高速道が予定されているルート上にあるため、その建設に先立ち発掘作業が進められている。聞くところによると、一日平均50名程度の見学者があるらしい。プレハブではあるが、発掘現場には事務所が数棟設置され、遺跡の発掘がこんな大掛かりで行われる事に驚いた。

さすが勉強会なので、車中は行楽気分ではない。引率する講師の先生が、遺跡について持つ知識を皆に教える。それでも女性優位のバスの中、途中道の駅に寄った後は、買った品物等について生活を匂わせる発言や、賑やかな笑いも。

途中、薩摩町永野別府原で、「地下式板石積石室墓」と、なんとも難しい読み方の、古墳を見学した。詳細は省く。

訪れた遺跡の名前は「中郡遺跡群」で、鹿児島本線野田郷駅から1キロ足らずの距離にある。そこは島津氏初代忠久の居館跡といわれる、「木牟礼城館跡」を含むもので、この館跡と関連すると思われる建物跡や、青磁などの輸入陶磁器が多く発見されているらしい。

さらにその場所は、縄文時代の集石(調理施設)や落とし穴などもあり、その後の中世時代の、竪穴の建設跡(作業小屋)や掘立柱の建物跡やかまどの跡もある。発掘担当者の説明を聞いているうちに、僕はすっかり空想の世界に入り込んでしまったようだ。多くの疑問が生じたり、不思議に思う事を、他の人には奇異に移ったかもしれないが、担当者に質問をし続けた。流石に実地に経験している人達である、実に明快な答えがよどみなく返ってきた。

主な遺物(使っていた道具等)は、縄文時代のやじりや石斧、木の実をすりつぶす石皿などが、中世では中国から輸入された青磁や白磁、石鍋などが出土するらしい。その時代の人々の生活を想像するだけで、胸が躍る。

遺跡現場

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説明する担当者

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溝状遺構

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竪穴建物跡

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集石

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遺跡全般に亘り説明を受けた後、実際に発掘作業を経験する事になる。そこではかなり前から作業が継続されており、ヘルメットを被った作業員が我々の指導に当たる。道具は移植ゴテ、竹ヘラおよび手箕(てみ)と呼ぶ掘った土を運ぶ道具である。

薄く丁寧に、土を削るように掘る。掘った土は手箕に入れ、土置き場まで運ぶ。もし何かに当たったときは土器や石器である可能性が高いので、移植ゴテを使わず、竹ヘラを使って丁寧に掘り出す。出てきた土器や石器は出てきた場所から動かさないで、目印に竹串を立てる。このような指導があり、子供を含むたくさんの人達が、発掘作業を楽しむように体験した。

発掘作業をする見学者達

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発掘作業する筆者

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発掘された遺物

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この作業を持って、今回の遺跡群現地説明会と体験発掘を終了した。僕としては、まだまだ勉強したい事が多く、配られたアンケートに、今後も継続してこの講座が開かれるように御願いした。若干消化不良の感が残ったが、まずは発掘体験を含めた遺跡の見学に、満足した気持ちで帰宅したのである。

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2009年6月16日 (火)

渋滞と「手作りフェスタ」

去る6月14日(日)、僕の家から約1キロの小高い山の上に姶良町総合運動公園があり、結構な広さの体育館がその中心にある。そこで「あいあい手作りフェスタ」が開催される事は家内から聞いていた。好きな編み物を展示させて戴いている店の店主に頼み、家内も作品を片隅に展示させて貰う事になったらしい。彼女は朝早く会場へ行った。

僕はクラブの仲間とグラウンドゴルフを8時から始め、帰宅後思い立ってそのフェスタへ行く事にした。運動公園に繋がる県道に出た途端、右折できない程の車の数。事故だととっさに思ったが、実はフェスタ会場へ行く車の渋滞であった。当地へ来てこれほどの渋滞に出会った事は一度もない。1キロを約40分ほど掛けて会場の駐車場へ到着した。

会場は人、人の波。貰ったちらしによると123店舗が出店しているらしい。沢山の人が手作り作品に興味を持っている事に驚いた。人を掻き分け殆どの店を覗いた。僕は手作りに興味を持っているわけでもないが、折角来たのだから見てやろうという気持ちで約1時間半会場にいた。グラウンドゴルフやゴルフの仲間や、学校の先輩Hさん一家、家内の友人達も来ていた。

陶芸品、木工製品、竹製品、郷土玩具、郷土菓子、洋服着物、花や植物等々多くの手作りショップに混じり、地域振興局(JR,や文化財団、観光連盟)が姶良地域の活性化に一役買おうとパンフレットを配っていたのが僕の目を引いた。

賑わう会場

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殆どが県内の出品者の中に、ただ1コーナーだけ僕の郷里熊本からの出品者がいた。県外からは彼ら夫婦だけらしく、芸術家と思しき若夫婦が鉄を使ったオーダーメイド作品を売っていて、しばし郷里の話をした。作品を買ってやりたかったがそれを利用する場所が家にないので、激励の言葉を掛け別れた。

熊本市から来た人の出品コーナー

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木工製品の売り場で、孫に買ってやりたい椅子を見つけた。ただ、送料を考えると高い買い物になる。暫し考えたがやはり買うことにした。店主が木製のコースターを2個サービスで付けてくれた。孫の喜ぶ顔を想像しながらその重い椅子を片手に駐車場へ向かった。

勾配のきつい坂道を、高校生と思しき運動部員達が駆け足で登ってくる。僕なら絶対に駆け足は出来ないその坂を、流石にきつそうではあるが集団で走ってくる。そして気持ちの良い事に、全員脱帽し僕らに大きな声で挨拶をするのだ。僕も大きく挨拶を返した。実に爽やか!大きくなったら孫もあんなになるのだろうか、どんな運動をするのだろうか、そんな事を考えながら駐車場までの坂道を下り、爽やかさで心され満たされ、40分も掛けてもここに来た事を喜んだ。

最後に開催の趣旨をチラシから抜粋する。

身の回りに大量生産の品々があふれる現在、伝統的な職人芸、研究熱心な作家による手工芸品など手作り・もの造りの作品は生活のスパイスとしてだけでなく、エコライフや消費者の安全、さらには科学振興の面から注目されている云々。個性に拘るもの作りに励む人たちと多くの県民の交流の場を提供し「地域の活性化」「新たなライフスタイルの提案」「もの作り文化の再生」「共生・協働の地域社会作り」を目指す。等々考えさせられるコメントである。

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2009年4月 4日 (土)

本年最初の史跡廻りを・・・・

加入している歴史愛好会「鹿児島史談会」の本年初の史跡廻りに、家内と共に参加した。家内は会員ではないが、僕をこの会に誘ってくれた方の夫人と家内が小さい頃からの友人であり、夫人も参加する旨の連絡を受けての夫婦参加となった。市営バスを借り切っての旅行で、補助椅子を使わねばならなかったことを思うと、かなり人気のイベントなのかも知れないが、入会間もない僕には判らない。確か51名の参加者で20歳台と思しき人も参加しており、女性も14名の参加があった。

今回の案内ハガキには「渋谷五族史跡廻り」と記されていたが、恥かしいかな渋谷五族といわれても何のことか判らない。ただ、訪ねる場所がよく聞く地名であったので、地域はおおよそ特定できた。先輩とイカ釣りに行くときに通る町も含まれていた。

今までの経験上、バスに乗れば大抵の場合、女性の声で挨拶と決まっていたが、今回は男性年配者の挨拶で始まり、高速道に乗り5分も経たないうちに、今回訪問する地域に就いての歴史講話が始まったのである。40分位の間に、自分の得意分野(古代、中世、近世等)について3人の方が代わる代わるマイクを握り歴史を語るのである。さすが歴史と言う趣味を同じくしている方々の旅行はこのようにあるのか、驚き入った次第であった。

薩摩川内駅に到着すると、本日最後の訪問予定地である川内市入来町を含む一帯を、中近世を通じ620年治めた一族の末裔である入来院ご夫妻が待っていて下さり、最後まで同地域の歴史について補足説明を頂いた。

頂いたリーフレットからの抜粋であるが、「渋谷五族とは鎌倉時代、相模の国渋谷荘司平姓渋谷 光重は宝治元年の三浦・千葉両氏討伐の戦功により、千葉氏の旧領の北薩の地頭職を獲得した。彼は六子中次男以下を薩摩に下向させたが、年齢順に実重を東郷に、重保を祁答院に、重緒を鶴田に、定心を入来院に、重貞を高城に各地頭として入部させた。この渋谷一族は川薩地方全域を領有することになり、長く威勢を振るったので、世にこれを渋谷五宗と呼んだ」とのことである。今回はこの、5つの地域に残る史跡を訪ねる旅であった。なお、ここで言う川薩地方とは川内(現薩摩川内市)と薩摩地方を総称した表し方である。

最初に訪れたのは市街地から近い高城(タキ)氏の墓と神社で、その神社は高城神社と呼ぶ。

高城二代の重誠を祀る高城神社

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熱心にメモを取る会員達

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東郷氏所領の史跡に移動中、パトカーから火災発生で今は殆ど使ってない山道を通るように指示されたため、残念ながらそこは通過せざるを得なかった。散り際であったが、あちこち桜花が車窓から眺められた。

次に訪ねたのは祁答院氏が治めた所領の史跡で、川向に居城であった虎居城を眺め、往時を偲び同氏の墓を訪れた。

虎居城跡

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祁答院氏の墓

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昼食は宮之城の道の駅と思しきところで採った。低料金で実に美味いバイキングを戴いた。少し後ろめたい気がしたが、知り合いのHさんと二人ビールもこっそり。このあと祁答院氏の墓を訪ね、鶴田氏が治めた鶴田城跡付近に向かった。

鶴田城遠望(正面の竹林)

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渋谷五族は下向以来渋谷党としてお互い結束し協力しあったが、四代重成のとき島津しの内紛に巻き込まれ分裂、鶴田家は他の四族と戦い敗北し断絶した。(鶴田合戦)

鶴田合戦の供養塔(首塚)

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次は、同乗されている入来院ご夫妻の住居である、薩摩川内市市来町を訪れた。そこには来訪者の為にボランティアの案内者が待機しておられ、二手に分かれ史跡を案内していただいた。

いくさ墓(逆修墓)・・・・戦乱の世、出陣するとき死を覚悟して生前に自分の墓を作ることがあった。これを逆修墓と言う。

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清色城跡に建てられた小学校

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ひとつばの一種らしい?(昔の武家屋敷跡に育つこの威容)

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堀壷(ほりつぼ)・・・・塵を集めて焼いたというが、本来は身を隠すところなのではとの説明であった。

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一番最後は入来院さんの住宅へお邪魔した。写真は住宅のかやぶき門で、鎌倉時代の武家門を現在まで守ってきたとのことである。

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帰りのバス車中でも、相変わらず歴史に関する会話が続き、その研究熱心に驚くと共に、頭が下がる思いであった。集合地まで多分2時間以上掛けてこられた方もあったらしい。そこまでの熱心さは僕にはないが「知るは楽しみなり」を実感した一日であった。最後にいくさ墓にひっそり咲いていた「しゃがの花」を添える。

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