旅行・地域

2009年10月25日 (日)

観光特急「海幸山幸」に乗ってみた。

日時は忘れたが、今月の朝のTVニュースで「宮崎駅から日南線の南郷駅まで、特急”海幸山幸”を土、日、祝祭日に限り運行する」事を知った。南郷には先月28日、Mさん夫妻とキャンピングカーで、一泊したばかりであるが、ニュースを見て直ぐ乗車を決意した。

以前から、JRの鈍行列車に乗って、のんびり旅行したいと思っていたので、それも併せ実行できると考え、日時を24日に決めた。往復で200キロを超えるので、JRのジパングクラブを利用できる。

それに加入すると、自動的に九州マイウェイクラブの会員にも登録され、その特典である、九州内のJRを4割引で利用出来る事は、大変大きな利点である。

これだけの割引は、僕等年金生活者にとっては、非常に有難い。前日に姶良駅で、会員証を提示して切符を購入した。片道158キロなので、往復購入で、特典の利用条件である200キロ以上になる。

宮崎駅から南郷駅までの特急券(500円)は、宮崎駅で購入する事にして、とりあえず姶良駅から南郷駅までの往復乗車券を、1人3,780円で購入した。天気予報は宮崎地方は雨であった。しかしこの日を逃すと、12月迄の土、日は予定が詰まっていて、断念せざるを得なくなり、運を天に任せた。

持ってゆくものは、缶ビールとお茶につまみ程度で、家人がリュックに入れ背負った。翌朝5時起床、姶良駅を6時ジャストに出発する鈍行列車(各駅停車と呼ぶべきか)に乗車した。当然世間は未だ真っ暗である。

「海幸山幸」は1日1往復で、宮崎駅を11時10分発であるから、そんなに早く出発する必要はないのだが、宮崎駅までの直行便が殆どなく、これを逃すと間に合わないのだ。

2両編成の電車は、流石に休日に加え通勤時間帯を外れているので、乗客は1人、,2人であった。天候は雨こそ落ちていないが、どうも曇り模様であり、雨を覚悟した。都城駅あたりから高校生達が乗ってきて賑やかになった。車外を見ると曇り空であるが、幸い雨は落ちていないようで、何とか一日このまま推移してくれるように祈った。

ガラガラの早朝電車

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宮崎駅での乗降は社会人になってから、初めての経験である。小学生の頃、父母に連れられ、蒸気機関車に乗り父の故郷宮崎に何度か行った。清武駅を出たころ「安井 息軒生誕の地」と書いた看板があったのを懐かしく思い出した。昔の事である。

8時10分頃宮崎駅に着いた。客も疎らで、駅舎も鹿児島中央駅に比べれば、かなり小さく寂しい雰囲気である。取り急ぎ構内のパン屋さんで朝食を採った後、駅員に訊ねた。「海幸山幸に乗れそうですか」。彼は丁寧に応えた。「並んだ順番に乗車できますから、今なら大丈夫です」。出発2時間半前の話である。

特急券を買った。ここでもマイウェイクラブの特典が利用できる。4割引の300円で買えた。空模様は相変わらず曇りであるが、雨が降るような様子もなく、殆ど人気のないホームに、暫く2人で座っていた。

実に手持ち無沙汰であるが、デジカメと8ミリビデオを使い、駅周辺を撮影したり、ネットで調べた情報を読み返したりして時間を潰しているうちに、一人二人、指定された場所付近に集まりだした。聞いてみると、やはり乗車目的の客らしい。

そうこうしているうちに、大型のカメラを持った、雑誌の記者らしい人達数人も集まり、彼等に挨拶を交わしながら駅長や助役や駅員がやってきた。僕等は前から5,6列目に並んだが、出発30分くらい前には既に30人近い人達が並んでいた。雑誌記者と思しき人達が、僕等に向けてカメラを回すのが判ったが、僕も構わず乗客たちの様子をカメラに収めた。デジカメを持った小学生が一人、入線してくる「海幸山幸」を撮るべく、興奮気味に乗客を掻き分け、大きな声で何か叫んでいた。僕も初めて実物を観ることで、期待に少し上気していたようだ。

自由席確保のために並ぶ人達

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JRのみならず、沿線各地の住民もこの観光列車にかける期待の大きさを、肌で感じた。このことは後でも述べる。宮崎駅には特別コーナーが設けられ、そのパンフレットが大量に並べられていた。その他の宮崎県の観光案内用パンフレットや、冊子には大々的に”海幸山幸”について、扉のページに載せていた。

10月10日が運転開始だったそうで、10~12日の連休は積み残しがあるかもしれないとの、予告がされていた事を、ネットで知った。これほど期待をして始めた計画が、特定日だけの営業である事に、当初僕には解しかねた。僕等には判らない事情があるにしろ、小出しにする事が一つの営業政策なのであろうかと。運転期間も来年2月28日までとなっている。ひょっとすると南郷町をはじめ、付近の市や町の町興しに、一時的に利用したのかも知れない。

入線した観光特急「海幸山幸」

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ま、それはともかく入線した2両の列車は、1両目は予約金を払った乗客が乗るので、ざわついた様子は見られなかったが、自由席の2両目は、何とか座りたいと思う人達が、足早に乗り込む様子が見て取れた。それでも座れなかった人は10名もいなかったと思う。開始5回目迄の運転状態から、集客予想はついたであろうから、特定日だけの運転は間違いではなかったと、JRは考えたかもしれない。僕は結構座れない人が多いのではと思っていたのであるが。

車両は気動車で、席数は1号車「山幸」は指定席21名、2号車「海幸」は自由席で30名である。実に広々とした車内空間で、外観にもインテリアにも、飫肥杉がふんだんに使われ、木の匂いと共に暖かさを実感できた。山幸には車椅子対応のトイレも完備されている。確認した事ではないが、照明は現在話題になっているLEDを使っているようである。ブラインドも、間違いなく木製のはずだ。床も杉材であり、肘置きも木製である。

海幸の車内

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山幸の車内

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山幸のトイレ

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床も杉板である

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ブラインドも木製

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照明はLED

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出発前までのホームでは、車両本体の撮影や、車両前での記念撮影をする人達で、ざわついていた。駅長や駅員が最敬礼して見送った、定刻に発車した列車では、あちこちでデジカメやビデオの撮影をする人達でなんとも落ち着かない。

一駅過ぎる頃には、車内はようやく落ち着きを取り戻したようなので、僕は冷えたビールを飲み始めた。一般の特急みたいに弁当や飲み物の販売はなさそうで、女性客室乗務員が特製のソフトキャラメルを売っていたようだ。

僕はこの日南線には初めて乗る。海岸線を走り、太平洋を眺めながら南下するのだと思い込んでいたので、青島駅を出て暫くすると、殆ど山の中を走る列車に驚いた。結局、油津までは余り海を眺める事は出来なかった。

それでも「鬼の洗濯板」や、南郷町近くの奇岩が見える場所に来ると、列車は暫く停車したり、速度を落としたりして、鑑賞や撮影の時間を与え、乗客のサービスに努めていたのは評価に値する。これぞ観光列車である。

鬼の洗濯板

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奇岩の群

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途中の停車駅では「海幸山幸」と書かれた幟が、何本も立てられており、地元の人たちが、旗を振ってホームで迎えてくれる。カメラを向ける地元の人達もいて、この観光列車に掛ける地元の人たちの熱意を、十分に感じ取れた。

12時55分頃着いた南郷駅には、これまた緑色のジャンパーを着た地元の人たちが出迎えてくれ、500円でチケットを買うと、マイクロバスで近辺の港や、近くの観光地に連れて行くサービスをしていた。

日南駅あたりから小雨になっていたが、僕等は先月の旅行でこの町の規模も、地理も大体理解しているし、目的は先月食べたカツオの刺身料理を、今回も食べる事なので、約10分歩いて目井津港に着いた。前回同様大きなタライに乗せられた、カツオ料理に舌鼓を打ち、美味いビールを飲んで、雨が止んだ港に祭られた神社に参拝した。

不思議な事に、15時45分の復路の列車には往路の3分の1程度の乗客しか乗っていなかった。残りの人は何処に行ったのだろうか。前の普通列車で帰ったのか、どこか別の観光地に行ったのか。僕にとってはどうでも良い事であるが、不思議なことではある。

宮崎駅へ向け出発を待つ「海幸山幸」

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女性客室乗務員が運転士の帽子と、女性客室乗務員の帽子を持って周り、乗客がそれを被って記念の写真を撮ったり、記念グッズが当たるくじ引きをさせたり、細やかなサービスをしていた。

ほぼ、15時間に及ぶ各駅停車と、観光特急の旅であったが、割引を利用出来た事と、職員達の昔と段違いに増した融通性や丁寧な対応とに対し、JRに感謝の一日旅行であった。

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2009年10月18日 (日)

鹿児島の「秋の木市」が始まった。

昨日までの晴天が一転し、朝から小雨が降りだした。予定していた事なので、家人の両親が眠る、鹿児島市の墓地に墓参に行った。墓の団地みたいにたくさんの墓が並んでおり、休日は特に多くの人が墓参や掃除に来ているが、流石に雨の中ではポツポツ。

先日のTVで「鹿児島の秋の木市」が始まった事を知った。折角出てきたのだから寄ってみようと、駐車場を捜す頃には雨は小降りになり、10分程並んだ後駐車場へ入れた頃には雨は止んでいた。場所は鹿児島中央駅から歩いても15分程度の、甲突川河畔の公園である。

長年、熊本市の植木市が開かれる、白川の河川敷の近くに住んでいたので、2月中頃から始まる植木市の設営が始まると「ああ、春が来たナー」と心も軽やかになった事を思い出す。しかし5,6年前から別の場所で開かれるようになり、その計画を知った時、春の訪れを肌で感じることが出来ない、大変寂しい思いをした事を思い出す。

熊本市のそれに比べると、比較にならない程の小さな規模で、ゆっくり見ても1時間程度で見終わりそうだ。聞いてみるとここでは春と秋に2回の木市が開かれるらしい。熊本は「植木市」と呼び、鹿児島では「木市」と呼んでいるようだ。10月15日から来月15日までの期間だそうである。

人影も疎らな会場

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綺麗な花々

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欲しい果実類も沢山

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鉢物を7割以上枯らしてしまい、すっかり自信を無くしていたので、以前ほど欲しいとは思っていなかったが、いざ綺麗な色の植物を目の前にすると、やはり心が踊りいつの間にか手で触れたり、手に取っている自分がいた。

家人が金柑を植えたいと、店主にその育て方を聞いていた。種無しの金柑があることを初めて知った。地植えにするとまず失敗しないと念を押され、買う気になったようだ。一晩水に漬けたあと地植えする事、牛糞の肥料は絶対使用しないことが注意書きに記してあった。

種無し金柑について説明する店主

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土地がないので植える本数に限りがあるが、何とか2~3本は植える事が出来そうである。僕は土地があれば、柿、みかん、ぶどう、ブルーベリーなどの果実類を植えて、自分で食したいが、哀しいかな土地がない。

休日ではあるが、朝からの雨もあって人出は少ないので、店主や店員は丁寧に対応してくれる。僕は「シャコバサボテン」の色違いを2株と、正式な名前は聞かなかったが、小さな綺麗な花が咲いた小型のサボテンを2種類買った。

可憐な姿のサボテン

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シャコバサボテンImg_2620

種無し金柑(一夜水に漬けて翌日地植えする)

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枯らす確率が高いので、高価なものは買えないが、それでも店主は育て方を丁寧に教えてくれた。この文を読んだ花に詳しい愛好家や、あるいは専門知識を持った人から見れば、「その程度で喜んでいるのか?」と、なんとも可笑しく笑い出しそうな初心者の僕等であるから、もう少し授業料を払って勉強の必要がありそうだ。何とか枯らさずに育てたい。

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2009年10月11日 (日)

南国暮らしの会「鹿児島サロン会」で学び、遊び・・・。

所属する南国暮らしの会が、サロン会と呼ぶ勉強会を、初めて鹿児島で行った。通常はこのサロン会、僕等夫婦が熊本市へ出向いた折に不定期に行われ、海外旅行や、短期、長期のステイについて情報を入手したり、知識を得たりする貴重な機会である。その後に実施する飲み会も、非常にという副詞をつけるほど和やかな楽しい時間であり、僕はこの飲み会のために出席しているのが、偽らないところである。

指宿市に「なのはな館」と呼ぶ鹿児島県が設置して、鹿児島県社会福祉協議会が管理運営している研修施設がある。60歳以上は色々な特典があり、特に素晴らしい部屋に格安で泊れるので、ここ2年半で10回以上も宿泊している。僕から見ると異常とも思える大きな建物とグラウンドであるが、その快適さはこの大きな規模がもたらしているのかも知れない。

この会の九州支部の副支部長を勤める、Tさん夫妻から先月電話があった。「何時も熊本へ来てもらっているので、今回は鹿児島でしましょうか」。前回のサロン会で、この「なのはな館」について、家人が大いにPRしていたのが効いたのかも知れない。二つ返事で快諾。早速予約を取って、10月9,10日の2日間で行う事に決めた。幸いな事に友人O君、MOさん夫妻とも他に予定が無かった。

以前このブログで触れたかもしれないが、宿泊する場合は3つの場所をセットで予約するようにしている。即ち宿泊施設と夕食会場、入浴施設である。そして日時はこの3箇所が、それぞれ営業している日を選ばなくてはならないのである。

僕等がセットで決める宿泊施設は当然「なのはな館」で、チェックイン後疲れを取るための入浴施設は、そこから車で30分程度掛る、海に面した露天の温泉で「ヘルシーランド露天風呂」という。夕日が沈む開聞岳と、目の前の海を見た人は、まず間違いなく感嘆の声を発する。最後の夕食はなのはな館から車で5分程度の、魚料理が中心の店である「すえなが」。ここの刺身定食の刺身の量を見た人はその多さに驚く。多分主人もそれが売りだと思っているらしく、帰り間際には「どうでしたか」と聞く。お客の満足な声と顔を喜びとしているのだろう。

僕はこの3箇所の回し者でもなく、PRを依頼されてもいないが、友人達を連れて行く時はこの3つをセットで組み立てる。実を言うと、このセットは、僕よりも多く指宿市を訪れている家人が薦めてくれたものであり、今回も彼女が予約した。

参加者は会員の中では最高齢ではあるが、常時参加されている穏やかなMIさんが腰を悪くして参加出来ず、加えてこれも催しや遊びには100%参加を身上、旨としているMOさんが、まさに鬼の霍乱とも言うべきか、沖永良部旅行から帰る船中で風邪をひいて、夫婦とも欠席となった。これで僕等夫婦を加えても7人の、少々寂しい会になったが、楽しくやろうというリーダーのTさん夫妻の声に励まされ当日を迎えた。

8人乗りのワンボックスカーを玉名市から出発し、帰り着くまで1人で運転してくれたのは、未だに現役で会社経営しているAさん。豪放磊落と言うのはこのような人を指すのであろうか、いつもニコニコ多くを語らないが、言動から豪傑の雰囲気を感じさせる。小心者の僕は彼の性格が羨ましい。

当初は彼らと指宿市の現地で落ち合う約束であったが、MOさん夫婦が行けなくなったので、九州高速道の桜島SAで僕等夫婦を拾って1台で行く事になった。当日10時前、待つ事10分程度で彼らが到着。実に和やかに談笑する事1時間半。この年齢であるから鹿児島が初めての人はいないので、車窓からの眺めより話題は海外旅行が中心である。皆それぞれ、南国のステイという夢を持って生活しているようである。途中風邪が治りかけたMOさんから電話があった。参加を心待ちしていた彼は、残念であっただろうし風邪を引いた不運を恨んだであろう。それでも不参加を詫びて、楽しい2日間であるように願う内容であった。

なのはな館では利用回数が多い為か、顔と名前を覚えて貰っているので、幾らかは融通を利かせて貰っているようで、時間とか利用部屋の変更についても快諾してくれた。1時過ぎから3時過ぎまで、20人程度が利用できる部屋で、Tさんが立てた研修内容で勉強会を始めた。その内容は

1、海外航空券の取得方法について(正規航空券と格安航空券の比較、代理店経由と直接購入の比較、Eチケットの予約購入方法)

2、ホテル滞在とコンドミニアム滞在の比較

3、滞在中の生活(現地滞在会員の生活に配慮したステイをするために)

4、その他(ビザの取得方法など)

Tさん夫妻は海外旅行回数も多く、訪れた国も南国に限らずスイスで1ヶ月の滞在経験もある。今月もやがてチェンマイに旅立つ予定で、経験に裏打ちされた知識、情報の教示は役に立つし有難い。面倒見の良さから、幹事役としてはまさに打って付けであろう。パソコンや小型プロジェクターを使っての勉強会の2時間は瞬く間に過ぎた。

少人数であるが熱心な勉強会

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宿泊者に対する唯一の義務が付属の研修施設の利用である。60歳以上は全て無料なので、研修に使った部屋の利用料もいらない。その後楽しんだグラウンドゴルフも用具一式、会場利用料も無料である。

グラウンドゴルフを予約していたので、勉強会のあと始めた。3コースあるグラウンドでは、地元の老人が数十人楽しんでいた。初めての経験であるAさんも楽しそうであった。僕等とO君夫婦は自分のクラブとボールを持参のプレーであったが、余り経験のない芝生に梃子摺った。

グラウンドゴルフも懸命に

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打ち方の指導しながらのラウンド

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薄暗くなりかけた露天風呂は、何度来ても素晴らしかった。語彙不足で形容が旨く出来ないが、海に浮かぶ船、直ぐ近くにそびえる薩摩富士と言われる開聞岳は見飽きない。

すっかり気に入った料理店「すえなが」の定番である、低価格の刺身定食の量の多さに驚くT夫人、デジカメに撮っての依頼にカメラに収めた。程よい酔いに気持ちも良くなり代行で帰宅した後、持参した酒、焼酎で遅くまで盛り上がった事は言うまでもない。

評判の刺身定食の刺身(味噌汁、茶碗蒸し、お新香で1,200円)

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翌朝は2箇所を観光する事にした。僕等はもう何度も来ているので、感動はないが長崎鼻から見る開聞岳は何度見ても、何時見ても雄大で、絵のように見えた。終戦直前、知覧飛行場から飛び立った特攻の乗員は、必ず開聞岳の上を飛んで沖縄方面に向かったと言う。彼らの犠牲の上に立って今の平和を享受している我々は、感謝の念を忘れてはいけないであろう。

開聞岳をバックに記念撮影

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開聞岳の勇姿

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次にそこから西へ向かい、途中から北西へ。広がる茶畑の中に続く立派な舗装道路を知覧町へ向かった。相変わらず疲れも訴えず、一人で運転するAさん。気の毒であるが僕も、多分O君も8人乗りの大きな車を運転するのに少し腰が引けているのは、経験が無いことでなので已むを得ず、彼の好意に甘える事にした。車中からMOさんへ電話した。もうすっかり風邪は良くなったらしい。

知覧町(現 南九州市)では武家屋敷を散策する事にした。ここも十数回訪れているが、これだけの集団で見学した事はない。1人や2人で見学するのとは違い、ゆっくり歩いても時間の経過を余り感じない。会話が多いことでいつの間にか、かなりの距離を歩いているのだろうか。武家作りの屋敷と庭園にマッチしない、アスファルトやコンクリートの道路を見ていたら、ハッキリした物言いから家人が「スカッとさわやかさん」と呼ぶO君が追いついて来て、「この道路は武家屋敷には合わないな」と。彼も同じ事を考えていたのだ。事の是非は僕には判らないが、市はどう考えているのだろう。

武家屋敷を散策する会員

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かくして、2日間に亘る7人のサロン会は、知覧の武家屋敷見学と、街中を流れる水路に泳ぐ多数の大きな鯉を見ることで終了した。鹿児島市で昼食し、桜島SAで彼等と別れ帰宅したが、彼等は僕等と別れた後、えびの市にある元職場の清涼飲料会社の工場を見学後、帰宅したことを電話で知った。今朝のメールでは、今回の会に大変満足した事と、企画を称えることが記されていた。殆ど家人が一人で動いてくれた結果なので、僕も安堵した。

  

                                                                                                 

                               

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2009年10月 4日 (日)

2回目のキャンピングカー旅行 その3

都井岬の海抜240メーターの高さに建つ灯台から下りて来て、海岸沿いの道を北上して南郷町へ向かう。好天気で素晴らしい眺めが続く。道路に車が数台駐車しており、何事かと海を眺めると、TVや映画で見るサーフィンを沢山の人達が楽しんでいる。その数は20名を下らないだろう。別の場所では、多くの人が波乗りをしている場所よりも、大きな波が押し寄せていて、「多分上級者が遊んでいるのであろう」とMさん。浜の横にある駐車場には多くの車が駐車していた。

この目で波乗りを見るのは、宮崎の一ツ葉海岸についで2度目である。民宿の主人が呉れた「宮崎の名所一覧」によれば、ここは洒落た名前の「恋ゲ浦」と呼ぶサーフィンのメッカらしい。暫し車を停めてカメラに収める。

恋ケ浦でサーフィンする若者達

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日南海岸ロードパーク呼ばれる道をさらに北上すると、「幸島」という、サルたちが芋などを洗って食べることで有名になった島がある。ここで暫く休憩する。地続きだと思ったら違っていた。ひょっとすると猿たちを見ることが出来るかもと思ったが、対岸には平地は無く、結構急峻な崖があるので、別のところにいるのであろう。

この道路の素晴らしいさは海岸沿いに咲く、赤いハイビスカスとブーゲンビリアだ。この赤い花が南国情緒を強く醸し出している。

道路横のハイビスカス

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幸島

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道の駅なんごう付近からの遠景

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めいつ港近くの食堂の名物料理

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南郷町目井津の「港の駅めいつ」へ着いたが、当日は生憎の休日。昨夜、居酒屋に来た従兄妹の息子が薦めた、名物の昼食を食する為であったが、休みであれば仕方ない。実は家人は昨年友人と一緒に同じコースを旅行しており、近くの旅館の食堂で美味しい食事をしたらしい。僕らもそこへ行くことに決め、港に駐車した。さすがに港町。小さな盥に入れた、カツオを使った料理が素晴らしく美味であった。写真の料理が1,100円である。

当初の予定ではこの南郷で泊まることにしていたが、急遽予定を変更して日南市まで北上し、近くの温泉か道の駅で泊まる事に決めた。実は来る11月、4家族で作っている会で、日南市への旅行を計画していたのであるが、事情で来春に延期することになった。従ってここでは、日南市飫肥の飫肥城址のみを見学することにした。僕は既に4,5度飫肥に来ているが、城や城址は興味があるので、何度見学しても飽きない。飫肥、 伊東藩5万1千石の「松尾の丸」を中心に見学した。街作りは鹿児島の知覧町と似た作りで、いかにも城下町を意識した町並みであった。

飫肥城大手門

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飫肥城内

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殿様の御厠

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湯殿

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本丸跡

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車の運転は最後までMさんがした。腰が丈夫でないのに気の毒であったが、牽引運転に慣れてないので、僕の運転は危なっかしく、彼に頼ることになった。城の案内所で近くの温泉を尋ねたら、車で20分程度のところに北郷温泉があるらしい。女性はやはり食べ物に興味があるらしく、有名なチーズケーキの販売店を聞いていた。

北郷町の温泉センターへ着いた。Mさんが受付に行き駐車場の使用許可を取った。自由に使って良いとの事である。300坪ほどの広い駐車場にはトイレの設備もあるし、ステージもあるので、イベントに使うこともあるのだろう。夕食を料理する際の照明付きの小屋もある。ここは今まで売店として使っていたようで、料理の価格表が剥がされず貼ってあった。食事はここを使わせてもらうことにした。

さー、今から飲むぞー

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入浴前に今晩の食材とアルコールを買う為飫肥へ引き返し、彼女たちが計画していた焼肉料理に必要な諸々の食材を買い込んだ。流石に海が近いので魚類は安そうだ。再度温泉センターへ行き、キャンピーを引き離した後温泉へ行き、疲れた体を少しぬるぬるしたお湯に沈めた。やはり日本人には温泉だ。因みに料金は4時を過ぎると100円安く400円であった。

焼肉料理に必要な用具一式、水などもポリタンクに入れて、Mさんは用意周到、必要なものはすべて積んで来ていた。我々の為に用意してくれたのではと思わせるような場所で、遅くまで飲み食べ、談笑が続いた。値段の高い肉を奮発したのか、普段は肉類を多く食べない僕も幾らか食べた。

流石に寄る年波には勝てず、疲れも手伝ってか2時間も過ぎた頃、徐々に睡魔が襲ってきた。アルコール摂取量の少ない女性たちは既に後片付けを始めていた。

2段に作られたベッドの上段に僕等、下段にMさん夫婦が寝ることになった。上段には天井にベンチレーター^が取り付けられているので、暑い時には回せば良いが、音が結構大きいので回し続けることは出来ない。

いつの間にか眠ってしまったが、顔に当たる水滴で目が覚めた。ベンチレーターの開けた窓からの雨滴であった。予報もそのようであったが、やはり雨だと天井に当たる音で眠れない。下段のMさんと家人の、大きな鼾と小さな鼾に驚き、小心者の僕は死ぬまで鼾をかくことは無いのではと、少し羨ましく残念な気もした。

上段から降りるときは音がする。トイレに行くときは、いくら鼾をかいて熟睡しているMさんも目を覚ます。ドアを開閉するときも音が出る。結局誰かがトイレに立つときは、全員が一緒に行くことになる。僕は若干の睡眠不足を気にしながら6時には起き出した。

翌朝は夜半からの雨が降り続いていた

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7時には小雨になったので洗面をした後、都城経由で帰宅することにした。一旦飫肥に引き返し、国道222号線を都城市へ向かった。舗装されているものの、山の中を進むのでスピードは出せない。小雨の中を1時間50分掛けて無事都城市へ着き、ファミレスでようやく朝食をとり落ち着いた。後は急ぐ旅ではないので、ゆっくり10号線を西へ向かい、瞬く間に過ぎた2泊3日の旅行を終えたのである。

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2009年10月 2日 (金)

2回目のキャンピングカー旅行 その2

翌朝、主人の次の旅行計画はベトナム、カンボジア、タイを結ぶ鉄道旅行である事を聞いて、その情熱に驚いたが、同時に当然の事ながら人間の生き方が、その人の持つ価値感でそれぞれ違う事を思った。この方は、旅先で美味いものを食べたり、立派なホテルに泊る事など全くの論外で、外国をこの目で見たい、知りたい、学びたいという目的での外国旅行なのである。今後の人生は旅に生きるのではと思うほど、予定を語る彼の声は弾んでいた。鉄道旅行の前に、今月後半には夫人と共にニューヨークに旅立つ由。時間はあっても資金のない僕は正直、羨ましさより情けなさを感じ、気が滅入ったのは事実である。

宿の主人夫婦との記念撮影をして車の連結作業が終ったので、親切にしてもらったご夫婦に別れを告げ、9時過ぎには国道220号線に乗り、志布志湾を右手に見ながら海岸沿いを宮崎県串間市に向かった。都井の岬には確か42、3年前同じくMさん夫婦と来た事があるのだが、記憶の一片も残っていない。

串間から国道448号線に移り、山の中を走った後、出発から1時間半程度で都井の岬に着いた。ゲートが作ってあり、番人のおばさんから「馬の世話、管理のために戴きます」と言われ、確か車1台に付き200円か400円かを徴収された。

直ぐに馬の群れを発見できるであろうと期待したのであるが、行けども行けども目的の野生馬を見つけることが出来ない。確かに道路には馬の糞が落ちているから、いる事は間違いない。どんどん進むと登りになり、この地にはそぐわないほどの大きなホテルが見えてきた。殆ど車も走っていないのに、これで採算取れるのか等話しているうちに灯台が見えてきた。

途中には潰れたレストランやホテルが、剥き出しのまま放置され、見るのが気の毒なくらい荒れていた。何とか緑の森に包含され、全体的には観光地の体を維持しているようであるが、部分適に見ると放置されたままの建物などが、観光客の減少を物語っており、このままでは宮崎県知事ではないが「どげんかせんといかん」と思った。

とうとう頂上の灯台に着くまで、辺りを見回していた僕だけが、2頭の馬を見つけただけで、他の3人は見ることが出来なかった。ただ、この頂上からの眺めは素晴らしく、青い太平洋を行く船が散見され、対岸の大隈半島がうっすらと見え、デジカメやビデオに収めた。北西方向には志布志石油備蓄基地のタンクも見ることが出来て、予報が外れ晴天になったことを喜んだ。

灯台付近から望む(前方は大隈半島)

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灯台から北東方向(南郷町方面)を望む

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折角だからと、200円也を払って灯台に登る事にした。登るといっても螺旋階段を4、50段上がるだけで誰でも登れる。ここからの眺めも又素晴らしかった。そこからは太平洋と志布志湾が左右に別れて見え、眼下に見える漁村の海の色や延びる堤防が印象に残る。この灯台は日本の有名灯台10指のなかに入っていることを、お客の少ない窓口で1人寂しくチケットを売っていた女性から聞いた。何で有名なのか聞きそびれたが。

この女性なかなか親切で、「何処で馬を見れるのか」と聞いたら「詳しくはゲートのおばさんが知っているが、今時分だと運が良いとホテルの前あたりでも見れますよ。それでもあそこの丘やこの丘を登れば、多分見れますよ」と幾つかの丘を教えてくれた。「でも昨夜の雨で滑りますから、登らないほうが良いでしょう」とも。運がよくないと見れないほどなら引き返そうと、ゲートに向かっていたら突然Mさんが「いるいる」と大声。太陽を避けているののか、茂った木の下に7,8頭の馬が身を寄せ合って、道路との境界に設置してある柵のなかでうごめいていた。

日光を避けているのか、木の下で固まっている馬たち

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7,8頭の群れを見つけた(100メーター以上遠方)

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早速車を停めて撮影する。野生馬なのでもう少し雄雄しい姿を想像していたのだが、思いのほか小型で、迫力も無く近寄っても動じる様子は無く、飼いならされた馬のようであった。気をつけてみていたら2箇所で群れを見つけた。一つの群れはかなり遠く、10頭くらいの群れであった。最高倍率のズームでシャッターを押したが、何とか写ったようだ。

女性達は興味がないのか会話に夢中なのか、車から降りもしなかったが、Mさんは近くにいた2,3頭の馬に近寄り、暫くシャッターを押していた。「まー、これで何とか目的を果たした」と次の目的地である南郷町へ向かった。

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2009年10月 1日 (木)

2回目のキャンピングカー旅行 その1

熊本のMさん夫妻と、第2回目のキャンピングカーによる旅行を計画した。当初は津和野を目的地にしていたが、彼らはそのあと、孫が待つ沖永良部への旅行が控えているので、日程の都合で南九州へ変更した。

日程上2泊3日がギリギリで、3泊は出来ない。しかもそのうちの1泊は、8月に従兄妹の子の結婚式出席の折に泊った民宿に泊るので、車中泊は1回だけである。素晴らしい環境の地に建つ、民宿の経営者夫妻は大の旅行好きで、世界各国を暇を作っては旅行しているようだ。

高校の校長をされた方だけに前回宿泊した時には、旅行毎にその旅の計画から、日々の出来事一切、掛った費用も含め細かに纏めた冊子を基に、デジカメに収めた写真を見せながら説明されたが、時間が足りず再訪を約束していたのである。今回は彼に負けず旅行好きなMさんを紹介する目的もあり、その民宿を予約していた。

残念ながらMさんの牽引タイプのキャンピングカーには、スペースに制約がありエアコンの取り付けが難しい。それでも5月の第1回目旅行時には、付けていなかったベンチレーターを天井に今回取り付けていた。僕は気候的に今回の車中泊は、多分蒸し暑く熟睡出来ないのではとの、少々の不安を持っていた。

民宿「すず風」前のキャンピングカー「キャンピー」

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高速料金も普通車が適用されず、聞くところによると中型料金になるらしい。繋がっているとは言え、車が2台走る計算だから、仕方ない事なのかもしれない。かなりの出費になるが、それでも通勤時割引を利用して熊本から10時過ぎには僕の家に到着した。

予定より早い到着なので、寝袋など必要品を積み込んだ後、我々夫婦とMさん夫婦4人は、国道10号を東に向かい、途中で霧島市国分のファミレスで昼食を採る。急ぐ旅ではないので、牧の原峠を登りきり、県道63号線を南東に進み曾於市岩川町に着き、道の駅で休憩する。車旅の楽しみの一つは、各地にある道の駅に立ち寄り土産物を買ったり、特産の食材を利用した食べ物を、食する事である。僕はここで肉厚の観葉植物を2鉢買った。恐らく枯らしてしまうであろうが、その奇妙な美しさの肉厚な葉が気に入ったので。残念な事に名前を聞く事を忘れてしまった。

道の駅おおすみ  「やごろう農土家市」でしばし休憩

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家を出て2時間半程度で、茶畑の多い大崎町の、従兄妹の家に着いた。彼女の息子は歯科技工士で、病院勤めの傍ら、陶芸教室を開いており、お弟子さん達から作品を見せてもらったり、従兄妹と談笑したりして過ごした。従兄妹の先導で、10分ほど走った志布志市有明町にある、「蓬の里」と呼ばれる水が綺麗であるが故に、蛍が乱舞するという地に建つ、5軒の民宿の内の1軒である民宿「すず風」に着いた。

ほたるが舞うという水路に立つMさん

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民宿前の屋外ステージに立つ筆者

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水が豊富なのであろうか、近くには大きな養鰻場が2棟建設中であった。雨の予報が外れて、晴れの過ごしやすい気候になった。近くの温泉センターで汗を流し、従兄妹の息子の友人が最近開店した居酒屋へ繰り出した。

女性達も食事後の片付けが無いし、旅行と言う開放感から結構飲んで食べた。運転代行で帰館した我々は、民宿の主人から英語の勉強のために長期滞在した、フィジーでの旅行について聞いていたが、とうとう睡魔に勝つことが出来ず、失礼とは思いながら床に入った。酔いのために半分居眠りしながら聞いている僕等に、主人も張り合いが無かったろう。失礼の段、深くお詫び申したい。

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2009年9月19日 (土)

新型コインロッカーを使ったが。

今月14日から娘が住む神戸市へ行って来た。目的は二番目の孫との初対面と、誕生祝に加え新築祝いをする事である。このことについては後日述べるつもりであるが、本日のタイトルは岡山駅で利用したコインロッカーである。

神戸市へ行った折には、近辺を旅行する事にしている。今回は一度も訪れた事のない、岡山市の観光地を見物すべく、神戸からの帰途岡山駅で途中下車した。僕も家人も結構大きい旅行バッグを持ち歩いているので、当然コインロッカーに預ける事にした。

構内で設置場所を捜したが、どのロッカーも満杯で空のロッカーが見つからない。要するに絶対数が不足しているのである。過去に何度か利用した事はあるが、使用法は特段難しい事はない。文字通りコインを利用して物を一時保管するだけだから、100円硬貨さえ持っていれば利用できる。

1階食堂街入り口付近に、ロッカーらしきものが目に付いた。ただその中央には液晶パネルが付いており、良く見るとタッチパネルのようである。多分ライトが点灯している庫は使用中で、点灯してない庫が空きロッカーらしい。気が急いているので、説明文を詳しく読む気がしない。そこで又近辺を捜したが、やはりコイン式の空きロッカーは見当たらない。

仕方なく先ほどのパネルの前に戻った。点灯してない庫にはキーが付いていない。やはりコインを投入して、キーを抜く普通のロッカーではなさそうだ。このロッカー以外に空きロッカーがなさそうなので、腹を決めて使用法を読むことにした。

新型(?)ロッカーの前面パネル

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読むと、この駅構内のどこかにカードを売っていて、それを使って扉の開閉をするらしい。カードの名称は「ICOCA」と書いてあるが、なんと読むのか判らない。新幹線切符売り場へ行き、そのカードを買いたい旨伝えたら、係員が自販機まで連れて行き、2,000円程度入れろと言う。

読み方は「いこかカード」との由。ICチップを利用しているので、「行こうか」と掛けているのかなと勝手に判断したが、あながち全くの推量外れでもあるまい。高価なICチップを使っているので、そのうちの500円はデポジットとして、カード返却時に返すとの説明。納得するまで下手な説明を聞いていたが、時間が気になりカードを買ってロッカーへ引き返した。

ロッカー前面と注意書き

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使用法は特段難しくなく、機械の問い掛けに対し、パネルにタッチして応えれば良いのであるが、デジタルに弱い年寄は、少し気後れがするはずだ。読み取り機に翳すと1,500円からロッカー使用料600円が差し引かれ、カード残高は900円になる。

このカードは岡山駅構内の施設や、店だけで使用が許されているらしく、「ICOCA」カード使用可の表示がある店で、使い切る必要があるとの補足説明も受けた。昼食を取っていなかったのでそれに使ったが、予定のない人はどうするのだろうか。

ICOCAカード

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観光を終えてホテルに向かうときに、再度カードを読み取り機に翳して荷物を取り出した後、500円の預かり金を貰うため、今度は自販機横の清算所まで行き、もう使わないのかなどと確認を受けた上で、返金してくれた。

話はそれだけである。それまではコインを投入し、荷物を入れ鍵を引き抜く、簡単な操作故に気軽に預けていたのに、このような方式はコインも使わないし、実に面倒な操作と共に、時間も必要である。気が急いている場合はイラつくであろう。コインを使わないのであれば、別な名称にしろと八つ当たりしたくなった、新型ロッカーの経験であった。

田舎者の僕ゆえ初めて知った事で、全国的にはこの方式の普及が進んでいるのかもしれないが、それではどのような利点があるのかと、今度は僕が問いたい。鍵の重さとカードの重さの差くらいしか思い当たらないが・・・。あー、一つあった。このロッカーでは領収書と同じ機能を持つような、「利用証明書」が発行された。

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2009年9月11日 (金)

熊本での忙しかった二日間。

グラウンドゴルフ大会の翌日は、メンバーコースの開場記念杯ゴルフコンペに参加すべく、朝6時起床して高速で熊本へと向かった。独り寝のためケイタイの目覚ましを利用して、起床できた。

墓参のため最低月1回は熊本市へ行く予定にしているが、色々な用事を1泊2日で済まさねばならないため、結構忙しい。今回は家人が娘の住む神戸へ長期滞在中なので、独りで行く事になった。

元職場の10名程度がメンバー登録しているらしいが、当日は6名がエントリーしていた。残暑厳しい時期に山岳コースを廻るのは、若い人も辛いらしい。流石に全員水の補給は万全であるが、1リットルは最低必要だ。

ラウンド回数が減った為か、以前ほどゴルフに情熱を持てなくなった。もともと才能も無く、加え全く練習もしないのだからスコアは二の次、久しぶりに会う元同僚との交歓が主目的になる。昼食時は久しぶりに会う友人達との交歓の場になる。会話が元同僚の消息や、現在の健康状態が主になるのは年齢的にむべなるかなである。

以前はオフィシャルハンディーを基に、ネット数を個人ごとに競わせ、順位ごとに表彰し賞を渡していたが、最近は簡素化してネットを5段階程度に分け、そのクラスに入った全員に同じ賞品を渡す方式に変えてしまった。早く終了した人達が、全員が揃うまで待てないという要望でそうなったのか、その方式が簡単で安価に出来ると、ゴルフ場側が踏んで変更したのかどうかは知らない。最下位の賞品を貰って帰る年が長く続いている。

その夜は、熊本市内の友人Y君宅にお世話になった。夫婦とも登山が趣味で、サークルのリーダー格になっているだけに週2,3回は登山する事もあるらしい。僕も熊本在住時に幾つかの山に連れて行ってもらったが、多分もうついて行けないだろう。登るスピードが違うのだ。

翌日は、先ず父母、兄弟の墓参を済ませた。誰もいない静かな墓地で、厳しかったが優しかった父と母、兄弟で一番心優しく、仲の良かった若くして亡くなった弟、死産した子供の冥福を祈り、孫誕生の報告を行った。群れを成して飛び交うオレンジ色のトンボが、雰囲気を一層寂しいものにした。気持ちを持ち直し、その後熊本城へと急いだ。

目的は8月に生まれた孫の、「熊本城一口城主」の申し込みと、最初の孫誕生を記念して加入した、「熊本城一口城主」の芳名板の確認である。一口の申し込みで一年間有効の、熊本城入城無料のパスポートを貰っていたので、それを示して入城した。

特設会場で新たに一口申し込んだ。城主証には「誕生記念」なる文字を書き加えてくれるそうである。芳名板の展示が来年1月になることを聞いて、熊本城内へ入った。この暑いなか国内や国外の観光客も多い。小さい頃から見慣れている城も、県外に居住している今、なんとなく観光客になったような気持ちで眺めた。

熊本城

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宇土櫓

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芳名板は3階に展示されていることを聞いていたので捜した。こんなに多くの人たちが寄付に協力したのか、改めてその人数の多さに驚いた。熊本に所縁のある人ない人も含め、全国から応じてくれたのだ。60数年間僕も熊本市にお世話になった。思い出一杯の地を去るについては少額の餞であるが、僕の気持ちである。これで孫の誕生を記念として、二口の「熊本城一口城主」となった。

10分ほど探して、関西地区のエリアで孫の名前を見つけた。早速デジカメで撮影して、後日メールに添付して娘宛に送信した。

孫の芳名板

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芳名板の一部

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その後、御船町に住む小学校時代の友人宅を訪れたが、時間が特定できなかったため連絡無しの訪問になり、会うことが出来なかった。後刻ケイタイに連絡があり、彼も墓参に行っていたそうだ。無沙汰を詫びて、今年中に再訪する事を告げた。

最後に、甲佐町に住む友人宅を訪れた。熊本での定宿みたいにしているMさん宅であるが、本日は幾つかの遊びに関する行事予定の打ち合わせである。10月から12月にかけては多くの行事が計画されているので、その日程調整が必要になる。年金暮らし同志の遊びであるが故に、費用を最小限に抑える為の日時と場所を、細かに打ち合わせなければならない。彼との調整が終れば宇土市に住む、ここも度々宿泊させてもらっているO君に、事の次第を連絡する事になる。

運転中に高校の同級生から電話があった。「同級生のS君が亡くなったみたいだ」との、驚くべき連絡である。学部は違うが、大学の学生寮では同じ部屋で1年間過ごした仲である。卒業以来4回ほどしか会っていなかったが、比較的元気に見えた。楽しく忙しかった2日間の熊本滞在であったが、訃報を聞き暗澹たる気持ちで自宅に向かった。翌日は早速S夫人宛に、お悔やみの文を添えて香料を郵送した。大学の同期会を来年予定しているが、明けたら早めに計画しよう。どんな事が起こってもおかしくない年齢になったのだ。

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2009年9月 5日 (土)

測量船「拓洋」を見学した。

何時ものごとく昼食を採りながらTVを見てい たら、NHK地元放送局からのニュースで、鹿児島港へ海上保安庁の測量船「拓洋」が入港し、希望者は見学できることを報じた。是非見学したいと思い、食事もそこそこに12時半に自宅を出発、13時には鹿児島港に着いた。見学時間は13時から始まるとのことで、埠頭には親子連れや高齢者が4,5名いて、数名はタラップを登っていた。

鹿児島港に係留された「拓洋」

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見学後、運動ジムへ行くつもりであったから、時間は1時間半程度を予定した。船の全体像を撮影し、受付のテントへ向かった。驚いたことに、ここでも新型インフルエンザ予防のための消毒液が用意されており、僕も手の消毒を済ませ、立派な数冊のパンフレットを貰い乗船した。

案内用テント

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あちこちに船員が立っていて、質問に応じていた。写真は自由に撮影できると聞いたので、珍しいものは可能な限り撮影した。殆ど個人あるいは2,3名程度の集団で、多数の団体はいなかった。限られた時間なので、断片的に船内の施設や測量機器についての質問しか出来ず、少し消化不良の感があったが、乗組員はかなり丁寧に答えてくれた。

海上保安庁の測量船で本庁所属の測量船には、この「拓洋」の他「昭洋」「明洋」「天洋」「海洋」「じんべい」があること、他に各管区所属の測量船が7隻あることを知った。

観測機器は「マルチビーム測探機」「屈折波受信機」「音波探査装置」等他にも幾つかあること。「拓洋」は昭和58年竣工、2,400トン、乗組員は約30名であること等の説明を受けた。

その他「海盆」・・・例えばフィリッピン海盆、「海山」・・・例えば春の七草海山、「海溝」・・・例えばマリアナ海溝に代表されるように、「海盆」「海山」「海溝」と呼ぶ海底地形があること等々を教えてもらった。このうち「海溝」は小学校で習ったが、他は恥ずかしながら知らなかった。

機器類が並んだ船室

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世界の海で一番深い水深は10,920メーター、日本での最深部は9,780メーターであること、日本の最南端は北緯20度25分の沖ノ鳥島で、日本最西端は東経122度56分の与那国島であること。この中でも常識的に知っておくべき事でも僕は知らなかった。

海底地形図

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深度測定時に使用する「屈折波受信機」の説明は、概要だけは理解できたが詳細については殆ど思い出せない。悲しいかな記憶力が乏しくなった。採泥時に使用するロープが8,000メーター巻かれたドラムには驚かされた。

屈折波受信機

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説明を受けていたとき、神戸大学海事科学部の練習船「深江丸」が入港してきた。昔は神戸商船大学だったが、たしか神戸大学と合併したはずだ。「拓洋」から下船し、深江丸に近付いて撮影を始めたとき、数名の女性を含む学生が下船し、船首から救命胴衣を着けて飛び降りの練習をする学生の撮影を始めた。なんと男子学生が飛び降りを躊躇して、なかなか飛び降りないのにはがっかりした。どやしつけてやりたい気分になったが、ぐっと飲み込んだ。

8,000メーター巻かれたドラム

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入港する神戸大学練習船「深江丸」

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桜島をバックに筆者

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もう少し見学したかったが、2,3日ジムを休む予定なので、今日は是非水泳だけでもしたいと思い、心を船に残しながら姶良町へ引き返した。短時間ではあったが、幾つかモノを知る事が出来て有難かった。

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2009年8月25日 (火)

かごしま錦江湾サマーナイト花火大会

かなりの人出であるとは聞いていた。それでも一度は見たいと思っていた鹿児島市の恒例花火大会である、「かごしま錦江湾サマーナイト花火大会」へ思い切って行く事にした。5時過ぎの電車で鹿児島駅へ向かった。何時に無く多くの乗客、特に子供や若い女性のゆかた姿が目立つ。多くは僕と同じく花火大会へ行く客である。昔は浴衣姿で電車に乗る事なんかあったのかなー、思い出さない。

会場は鹿児島駅近くの鹿児島港である。1時間半前に着いたのであるが、すでに会場は人、人、人の波。こんなに多くの人が1時間程度の花火打ち上げを見に来るのだ。正直驚いた。

会場へ向かう人たちの群れ

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衆院選の候補者が、絶好の機会だと声を張り上げ支持を訴えていた。多分聞いている人は多くいないであろう。心も会話も多分、今から始まる花火のはずだ。庶民は今夜の花火を楽しみに電車、バスを利用して会場へ集まってくる。(車は駐車場探しで大変らしい)ここでも若い人達のゆかた姿が目を引く。孫の手を引いたおじいさん、ふと自分の姿を思い重ね、神戸市に住む娘一家を思った。孫が近くに住む人達が羨ましい。

打ち上げ1時間前

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これだけ近くから花火を見るのは、今まであまり経験が無い。大型の花火が打ち上がるたびに起こる人々のどよめきと、響く花火の反響音。翌日の新聞によると、打ち上げた花火は12,000発だったらしい。当然のこと、わが町の夏祭り花火大会とは規模が違う。

混雑する会場(前方は桜島)

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露天商も稼ぎ時である。数時間の間に勝負をつけるべく、大声で客を呼び込む。暑さに加え人の熱気でムンムンであるが、時たま吹く風が涼しい。

遠くから来ている人達は、帰りのラッシュを避ける為、花火打ち上げ終了のかなり前から帰り支度を始め、すでに動いている人達も多くいる。開始時よりも勢いがあり、連続して打ちあがるように思える。今が打ち上げピークだろう。

打ち上げられる花火

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いつも思うことであるが、どこの花火会場においても、花火打ち上げのピークは、何故に終了間際なのであろうか。打ち上げ開始の暫くは、あまり多くを上げず、人々が帰り始める頃から狂ったように打ち上げる。僕には解せない。

最後を飾りたいと思う気持ちは解らぬでもない。しかし、特に人出がかなり多い場合は、早く帰りたいと思う人の為に、打ち上げピークを考え直すべきだ。確かに最後まで見て貰うことを前提にした、主催者の計画は間違っていないが、現実には乗り物の混雑を理由に、早く引き上げる人達は多いのである。

なかなか綺麗に撮れないデジカメ

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何度か、後ろを振り返りながら花火を眺めた。すでに帰り始めている人達が、その連発と、大音響に驚かされ、振り返って見るのである。電停では交通局の係員が、乗客を整列させるため大声を張り上げていた。港ではまだまだ花火の打ち上げが続いていた。

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2009年7月23日 (木)

南国暮らしの会サロン会とゴルフ

先行き多くの年数が残されていない現在、やりたい事は沢山あるがそのうちの一つにタイ国でのショートステイがある。現在南の国でロングあるいはショートステイをしている人達、あるいは将来したいと考えている人達が加入している「南国暮らしの会」というNPO法人がある。僕も家人と共に2006年に加入し、九州支部に登録されている。その会の総会や情報交換会あるいはサロン会に出席し、南国と総称される国々に住んでいる人、あるいは住んだことがある人達からその国の情報を聞きながら、想像を掻き立てられ興奮した事を懐かしく思い出す。

過去に何度かタイ国を中心に南の国の小旅行をしたが、せめて1年に何度かのショートステイをしたいという夢は持ち続けている。でも現実的な可能性を探れば、ここ1,2年の間に1回か2回程度のショートステイが精一杯なのではと諦めが先にたつ。資金的な問題もさる事ながら、同行予定の家人の積極的同意が難しいからである。

福岡県に次いで会員数が多い(と言っても14名程度である)熊本県の会員は素晴らしい結束力を誇っている。僕も一昨年までは熊本に住んでいたので、何か行事があると集まって情報を持ち寄り、その後は和やかな飲み会に移り、実に楽しい時間を共有出来たのである。

僕が鹿児島に転居して以来、殆どのサロン会(情報の交換や、パソコン等の勉強会および食事会)は僕達の熊本行きの日がその日に当てられている。

今回も、僕等が熊本へ行く7月20日がその日に指定された。朝6時に姶良町を出発、幾つかの用事を済ませ、決められた午後2時に友人のMさん夫妻と会場に到着した。既に九州支部の副支部長を勤めるTさん夫妻と最近入会され、下関市から特別参加されるTさん夫妻は到着して、会場に常設してあるパソコンと持ち込んだパソコンを使い、勉強したりスカイプでチェンマイ支部の会員と会話をしていた。

参加者はそのほか友人のO君夫妻とMさん、Aさんの合計12名であった。上旬に福岡市で行われた支部総会の報告がなされた後、下関市のTさん夫妻へ自己紹介を兼ね日々の過ごし方について発表した。僕は今年1月、Mさん夫妻やO君夫妻と経験した「シンガポールからのクルージング」について、デジカメ写真をプロジェクターで拡大して報告、T副支部長からは昨年行った1ヶ月間のスイス旅行について、実に綺麗に編集されたムービーメーカーでの報告があり圧巻であった。

報告会

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発表するAさん

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会終了後会場を熊本市の繁華街の居酒屋に移し、反省会と言う名の飲み会が始まった。当然といえば当然であるが、同じような目的や価値観を持つ人達の飲み会は、楽しさ、和やかさにおいてサラリーマン時代のそれとは天地雲泥ほどの差がある。飲むほどに酔うほどに、益々結束力が増すようなユニークな提案がなされ、時間を忘れ飲み且つ喋り、弾んだのである。

連休最後の夜とは言え、閑散とした熊本市の飲み屋街

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翌日は雨の予報が出ていたが、友人1名を加え昨日のメンバー6人で久しぶりのゴルフとなった。雨に祟られる事は承知で9時過ぎスタートした。僕は今年7回目のプレーであった。例年だと14,5回はプレーしているであろうが、長い事遠ざかっていると、どうしてでもやりたいという気持ちが失せて来るのは不思議である。

案の定ハーフを上がってくる頃は激しい雨になった。加えて雷が鳴り始め、とうとう非難せよとのサイレンも鳴り始めた。4,50分待つ間に小降りになったので、インを廻り始めた。幸い大降りにはならずプレーを終了し、再会を約し散会した。

スタート前のわくわくした時間

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筆者の華麗な(?)フォーム

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急な大降りで非難小屋へ

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かくして二日間の楽しみはあっという間に過ぎ、幾らか疲れの残った体で高速に乗り、薄暗くなりかけた夕方、鹿児島へ向かった。

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2009年7月 4日 (土)

錦江湾クリーンアップ作戦に参加して。

小雨に関わらず開催予定であったので、昨夜は何時もより早く床に就いた。町の広報誌で「錦江湾クリーンアップ作戦」があることを知り、参加する事に決めていた。ボランティアと言えばカッコ良いが、20数年前にその砂浜からボートを出して、キス釣り何度もしたこと、国道10号線を鹿児島市方面から姶良町へ向かってくるときに、その緑の林と港が素晴らしい景色であることから、利用させて貰ったお礼と景観保護を目的に、労力を提供しようと参加しただけの事である。会場は二つに別れ一つは海水浴場、一つは僕が参加した漁港に隣接した浜辺である。

町役場の担当者に聞いたら、両会場で1,000人以上が参加したらしい。大げさなタイトルの手書きストリーマを作ってきていたが、早い話漁港と浜辺のゴミ拾いと刈り払い機での草刈りである。それでも町の主催であるから、当然のこと町長や副町長はじめ役場の職員は多くが参加したらしい。

大げさなストリーマ

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重富漁港(山のふもとにJRと国道10号線が並行して通っている。左方向が鹿児島市)

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7時45分集合であったが僕は7時20分には着いた。既に20名くらいが集合しており、その中に元職場の同僚K君と会った。20数年前、彼は僕に瀬渡しや地磯でのクロ(メジナ)釣りを最初に教えてくれた人で、僕に何とか釣らせようと、自分の釣りはそっちのけで指導してくれた人である。その後あちこちの釣り場に連れて行ってくれ、浮き釣りの醍醐味を教えてくれた。先輩のHさんもそうであるが、釣りの指導者は初心者に対し親切である。K君とは彼が所有するプレジャーボートで、明朝5時に同港からアジ釣りに出る約束が出来た。

8時頃には大勢の男女、子供達も集まってきた。ざっと見たところ150名程度であろうか。副町長や課長の挨拶後、担当者の注意などがあり可燃ゴミと危険物を入れる袋を手渡され、早速作業にかかった。予定時間は2時間であったが、多分町の担当者が事前に調査して、さほどゴミの量が多くない事を確認していたのだろうか、急遽1時間半に短縮された。

開会式(この浜辺では、昔NHK大河ドラマが「跳ぶが如く」の撮影があったと聞いている)

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僕も袋を持って海岸の草むらを中心に缶やペットボトル、その他のゴミを捜し始めたが、あまり見つからない。殆どの人たちの袋は半分も集まっていない様子である。それだけ釣り人や利用する人たちのマナーが良くなっていることの証左であるのだから喜ぶべき事であろう。それでも缶や壜数本、可燃物等を草むらや砂浜で見つけ、袋半分くらいは拾った。

作業風景(浜辺へ向かって移動する人達)

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林に続く砂浜を捜す人達(前方林の右側が海水浴場)

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収集したごみ

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高々1時間半の作業ではあったが、子供を連れた母親、父親が作業を通して、彼等に道徳心を植えつけたり、人様のために奉仕をする事の尊さを教える時間であった事が、浜辺を綺麗にした以上に素晴らしい収穫であったに違いない。

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2009年7月 1日 (水)

紫陽花祭り最後の日に・・・・。

ここ2,3日前まで梅雨前線が九州北部へ上がり、大分や福岡、熊本地方は大変な大雨であったらしいが、当地は降っても大雨にはならず昨日6月30日は予報が的中し、午後から晴れ間も見えてきた。

わが町姶良町でも「あじさいロード」と呼ばれる、思川沿いに植えられた紫陽花を見ることができる。月1回ではあるがその川の美観を守るためのボランティア作業に参加しているので、その際に数メーターおきに植えられた紫陽花を見てはいるが、県立吉野公園には結構な数のそれが咲いているらしいと聞き、その花は雨に映えるからと言っても雨の日は遠慮したかったので、予報を信じて午後から家人と一緒に出かけた。

県立吉野公園は娘が2,3歳の頃1,2回は行ったことがある。昔流行った「フジカシングルエイト」で娘を撮った想い出が浮かんできた。それ以来30数年振りであろう、地理不案内なのでナビの力でようやく辿り着いた。

公園の案内版によると、この公園は昭和45年5月に開園し、その広さは約31ヘクタールで標高234メーターの高さにある。着いて知ったのであるが「紫陽花祭り」は最終日であった。最後だからと言っても紫陽花がなくなるわけでもないから、痛痒を感じる事もないのだが、兎に角入園した。

前方に桜島を望む入り口には紫陽花についての説明書きがあり、西洋アジサイ、ガクアジサイ、やまアジサイが合計1,000株植えられているらしい。

公園入り口(前方は桜島で頂上付近は雲に覆われている)

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入り口正面から左側にあじさいロードと名付けられた道を進むと、なるほど盛りを少々過ぎたかと思われるアジサイが見えてきた。まあまあ、綺麗である。正直言うと今年は過去にシャクナゲやふじ、バラなど大量に咲いた盛りの花を見てきたので、この程度かと若干の期待外れの感があったことは否めない。でも無料であるから良しとすべきだ。感嘆の声を上げるほどでは無いが、約200メーター程度の両脇に咲いたアジサイは、手入れが行き届いて目を楽しませてくれた。

あじさいロードに咲くあじさい。

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さらに進むと一面緑の絨毯よろしく、芝で覆われた広いグラウンドが現れ、そこでは20名近くの人たちが、グラウンドゴルフに興じていた。実に羨ましさを感じた。彼等はこんな広く青々した芝生の上でのびのびボールを打っているが、僕等の会は狭い草も生えていない土のグラウンドで、他のチームと譲り合いながらプレーしている。後で判ったことであるが、この公園にはそんなグラウンドが2面もあるのだ。

グラウンドゴルフに興じる人達。

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展望台が見えたので、登る事にした。そこは車椅子でも登れるように緩やかなスロープになっていて、いたわりと優しさを感じた。目の前には頂上が雲に隠れた雄大な桜島、眼下には少し波打つ錦江湾、目を右に転じれば、霞んで見える鹿児島市、まさに絵になる風景であり、暫く見入った。予報は的中、一滴の雨も降らなかった。帰りは小さな道の駅で、くちなしの大きな鉢植えを買った。あの強い匂いで玄関を爽やかにするか!

霞む鹿児島市(桜島フェリーが行き交った)

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2009年6月 1日 (月)

義兄夫婦との佐多岬旅行。

厚生労働省の年金問題も最近余り紙面を賑わせなくなったが、義兄にとっては突然のプレゼントが発生した。2~3年分の記入漏れとかで、幾ばくかの金が振り込まれたとの電話を貰った。当然貰えるお金ではあっても考えてもいなかった突然の幸運だから、嬉しく無い筈はなく声も弾んでいた。

細々と年金生活を送っていた義兄夫婦であるから、生活資金として貯蓄するのが普通だろうと思うが、僕等夫婦を一泊旅行に招待したいとの電話でもあった。義兄は高校の教員や、商社に勤務した後宗教家の道を選んだ。実に質素な生活を送り、決して不平不満を口にせず希望的な考えを前面に出す、所謂前向きな発言で僕らを安心させていた。

でも、彼は肺がん患者なのである。180センチ近い堂々たる体格であったが、現在はステッキを手放せなくなったし痩せてもきた。あと2年で金婚式なのでそれまで何とかして生きたいと言う。僕らも心から願っている。

昔、仕事で泊まった長島の国民宿舎からの沈む夕日を、もう一度自分の連れ合いと一緒に見たいという彼の願いであったが、既にその国民宿舎は無くなっていた。そこで思い出したのが、僕の友人が泊まった事がある本土最南端にあるホテルである。彼に言わせるとそのホテルは僕がネットで捜し、予約したものらしい。後で思い出した。多分そこでは沈む夕日が眺められるハズであった・・・・。

義兄が車を運転して我が家へ来た。癌患者の身ながら運転は短時間なら出来るのだが、当然ここからは僕が運転するつもりであった。が、彼は自分ですると言う。僕がしますと言うのに彼も譲らない。内心怖かった。高齢者が運転中突然の発作で事故を起こすニュースは何度も聞いている。実にひやひやしながらも、鹿児島市の桜島桟橋からフェリーに乗り桜島へ渡った。天気は晴れで5月の風は心地良い。義姉も喜びを隠さないし昔話に花が咲く。義兄の命が一日でも長からん事を祈った。

鹿児島市沖にいた潜水艦(フェリーから)

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フェリーを降りてから僕が運転を代った。僕もホッとしたが全員その気持ちであったろう。溶岩道路を東へ十数キロ進み、大隈半島を南下する。垂水市を海岸沿いに進み、鹿屋市の西部にある古江漁港近くの何の変哲もない食堂に入る。義兄が何回か行った美味い、評判の食堂らしい。噂通り食堂の待合室は客で一杯であった。名前を書いて暫く待たねばならなかったが、料理は美味であった。

若干の靄が掛っていたが、対岸の薩摩半島に霞んで見える薩摩富士と呼ばれる開聞岳が素晴らしかった。道路わきの民家に植えられたブーゲンビリアやハイビスカスが、南国らしい雰囲気を醸していた。

薩摩半島南端にそびえる開聞岳

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伊座敷からいよいよ山に入り、佐多街道と呼ばれる道を南下する。車は極端に少なくなった。有料道路は廃止され最南端の佐多岬へ人家の無い道を進むと、白い灯台が見えてきた。釣りの本には必ず出ているメジナ釣りのポイントでもある。近くでそこに建つ灯台を見るためには、徒歩で有料道路を通らねばならない。通行料金300円也を払いトンネルを通るが、義兄はそこまでしか行けなかった。その先から山道なのである。義兄夫婦と別れ僕と家内は山道を20分くらい進んだ。偶に観光客とすれ違う。こんなところでも普通の登山と同じで、どちらからとも無く挨拶するには驚いた。

古びた展望台があり、そこには老婆が一人展望所の最上階まで登る人から200円を徴収をすべく頑張っていた。折角だから上のほうから眺めろと勧める。最上階からの眺めは、流石に素晴らしかった。遠く又近くを通る船舶と海、灯台、急峻な崖、押し寄せる白波をデジカメに収めて引き返した。

佐多岬灯台

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ホテルまでの道では南国の花が道の両脇に、今を盛りに咲き天気に恵まれた事を感謝した。突然隣の義兄が声を上げた。なんと猿の集団が山道にいたのである。デジカメで撮影する間も無く、林に中へ入り込んでしまった。

道路わきに咲くブーゲンビリア

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昔の国民宿舎を改造したホテルであったが、想像以上に立派であった。ところがである、沈む夕日を目的に来たのになんと言うこと、ホテルの前の山に遮られ沈む夕日が見えないのである。そこを確認しなかった僕らが悪かったのだが、それでも義兄夫婦は満足そうであった。

僕が気を遣わず飲めるようにと、彼は食堂の責任者へビールを運ぶよう指示していたらしい。数杯のビールと彼が持参した日本酒で、すっかり酩酊気味になってしまった。酒好きな彼も数年前から一切酒を口にしなくなったが、今日はよほど嬉しかったに違いない、2杯の生ビールを飲んだ。

カラオケ室を予約、食事後その部屋へ入った。彼と家内が交互に歌い義姉も1,2曲歌った。1時間半殆ど歌いっぱなし、これが癌患者なのかと疑うほど上機嫌で歌った。僕も歌が大好きなのだが二人に歌わせた、と言うより酒が廻り休みたかったのである。彼が義姉の肩を抱きフランク永井の「おまえに」を歌ったときはジンときて胸に迫り涙が出そうであった。長年苦労を掛けた連れ合いに対する、心からの感謝が込められていたはずだ。デジカメですっかり撮影したので、後日彼らに渡すつもりである。

翌日も晴れであった。目の前の海岸に作られた散歩ロードを散歩したり、夫婦でゆっくり散歩する義兄夫婦をビデオに収めたりして帰途に着いた。夕方から昔出向したことのある子会社の飲み会があるし、その翌日はゴルフと打ち上げの飲み会と連続するので、義兄に話して早めに佐多を出発した。

途中、マンゴーの生産、直売所に寄り、栽培棟と生っているマンゴーを撮影させてもらった。社長の息子と思しき人が僕らを棟の中に入れマンゴーの栽培について20分ほど説明してくれた。初めて見たマンゴーの木と鈴なりの実に感嘆の声を上げた。小さなマンゴーが1個800円であったが、それぞれ箱詰を買った。

鈴なりのマンゴー

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マンゴー近影

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先日行ったことのある鹿屋市のバラ園に、義兄の希望で寄った。昔仕事で来たことがあり懐かしく思っていたのであろうが、広大な庭園を歩く事は出来ないと、外から見るだけにとどめ、帰途を急いだ。午後2時には帰宅したが、義兄が疲れで寝込みはしないだろうかとそれだけが心配であったが、義姉からの電話で何時も通りである事を聞き安堵している。何度も旅行は経験しているが今回は1泊旅行ながら、心に残る決して忘れる事の出来ない旅行になるだろう。

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2009年5月16日 (土)

警察学校生徒と思川清掃。

毎月第3土曜は、姶良町を流れる思川あじさいロードの清掃ボランティア日である。4月は都合で参加できなかったので、今回は是非と思い昨夜は10時過ぎに就寝、今朝6時半起床した。

7時20分頃集合場所に着いて暫くしたら、川沿いの道をユニフォーム姿の一団が隊列を作ってやってくる。女性も混じっているようだ。県警察学校が鹿児島市から移転し、ここ姶良町に4月1日に開校した事は町の広報誌で知っていた。思川沿いに新築された校舎で、本年4月入校の120数名が学んでいるとの事である。

一団は彼等であった。本年4月入校の警察官の卵である。隊列を組み、我々の前に整列し、元気な声で挨拶する。習ったばかりの敬礼が微笑ましい。10月が卒業らしいから大学卒業者なのであろうか。

思川沿いの校舎で学ぶので、その川の清掃をお手伝いしたいとの申し出があり、4月から手伝ってくれているのだと理解した。僕は自治会長の挨拶に「気をつけ」の姿勢で聞く彼らを頼もしく見つめた。女性7~8名、男性20数名程度の人数である。自分の子供よりずっと若い彼らであるが「社会的秩序、交通の秩序を維持し、その他将来にわたり日本における平和を維持する」使命を今後担って行かねばならない。

行動も機敏であった。高々1ヶ月半程度の教育で若人は変われるのである。仕方無く参加したのだという気持ちの者は一人もいないと思わせる、明るく元気な挨拶とその表情であった。

集合場所へ進む警察学校生徒達。

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集合した警察学校生徒達。

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ボランティアの方々。

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一般の参加者も30名程度なので、60名近くの人達が川の両岸を草払い機や鎌で生い茂った雑草を刈り、やがて花を咲かせるであろう、雑草に埋もれそうなあじさいを際立たせるのである。同時にゴミや危険物も拾う作業も行う。

作業をする生徒達。

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同上。

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1時間の作業で、参加者達は8時半頃にはそれぞれ帰って行ったが、学生達は全員が揃うまで待機していた。僕は彼等に敬意を表する目的で暫く残り、有難うの言葉を伝え帰宅した。

実を言うと、僕の父も長い警察官生活の一時期、教官として警察官の卵を教えていた。僕が中1の頃であるから、18,9歳の学生達も大人に見えた。学校の中に官舎があったので、校庭で指導している父の姿を何度か見ている。親父の仕事に魅力を感じたのか、弟も同じ道を選び、さらに彼の子供も又同じ仕事を選んだ。

その頃の父よりずっと年を取ってしまった僕であるが、作業中その当時の事が思い出され、彼らに強い親近感を持った。試験、試験で上がっていく世界であるが、警視まで上り詰めるのは大変な努力を要する。皆負けずに頑張れよと心で呟いた。今日は教官時代の父の想い出と、看取るまでの父との同居生活を思い出させてくれた若者達との短い交流であった。

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2009年5月 5日 (火)

キャンピングカー、同乗初体験  (2)

予報は曇りのち時々雨であったが、朝食を採る時は未だ好天であった。通路を10台近くの自転車に乗った人々が、挨拶しながら通り過ぎる。あちこち、炊飯の湯気や煙も見える。

ベッドの収納は要領を掴めばさほど時間が掛らない。それより持ってきた食材や飲料水、ゴミ入れ、コンロなどのキャンプ用品の収納が大変である。キャンピーを牽引車両に連結するにも幾つかの確認が必要で、特に電気周りのケーブルを繋ぎ忘れると事故に直結する。安全を確認した後、キャンプ場を後にした。

女性達は色々買い物をしたいのであろうが、なにせ年金生活者の身分、砂丘らっきょとか、筍とかの安売り小屋を見つけなければならない。そんな時間も考慮して8時半に、次の宿泊地である都城市に近い財部町に向かった。

来るときは承知の上で遠回りをした。薩摩半島を南下して、西部の南さつま市へ向かったのである。急坂を避けるつもりだったが、やはり坂は急であった。帰りは薩摩半島南西部から北東部の鹿児島市へ、ほぼ斜めに北上を続けた

鹿児島市からは錦江湾沿いに10号線を進むが、鹿児島へ向かう下り車線は渋滞である。上下1車線はもう何十年もそのままだ。僕は不思議でならない。鹿児島県民はあの狭さを何故に我慢しているのだろうか。僕が住む姶良町を通過する頃は少しずつ雲が厚みを増してきた。

急ブレーキのとき若干、後部車両の衝撃を感じるが、走行中は牽引していることを感じることはない。霧島市(旧国分市)の垂水と都城との分岐点は渋滞であった。多分、鹿屋市のバラ園に行く車が多いのであろう。

10号線から結構入り込んだ財部町へ到着したのは12時頃。殆ど名所がない田舎町の中、唯一光っていたのは道の駅だった。

何故この町を選んだのか、それはMさんのようなキャンピングカー所有者が入会している団体と契約している駐車可能な施設が、鹿児島県ではこの町だけにある為で、ここでは無料で駐車できるし、温泉や食堂を備えた施設がそばにある。

たからべ温泉健康センターに駐車して、キャンピーを切り離したあと、食事の為に道の駅へ行った。評判であるとミニコミ誌に書かれたラーメンを食することにしたが、ラーメンの本場熊本から来たのに、金を捨てるようなもんだと、道を教えてくれた住民が言った。でも、まあまあの味であった。

財部町のキャンピングカー駐車場

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同上

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僕は店頭で売っている花が気になって、すぐさま外に出て花コーナーを物色する。僕など比較にもならないほど草花に造詣が深くて、花が好きな M夫人も出てきて、直ぐに欲しい花をレジへ持って行った。僕はアデニュ-ムという幹のでかい、可憐な花を見つけ、合計4つの花を買った。

「夕食はどうする」と、昼飯を食ったあと直ぐ問題になった。温泉センターは美味くなさそうだし、「スーパーで買うか」と言うことで一致。刺身、寿司、その他それぞれが好きなものを買い込んだ。

温泉は良い泉質らしくサウナも備えた立派な施設で、十分疲れを取った後、4時前には飲み会が始まった。夕方までは到底待てなかった。計画では併設されたグラウンドでグラウンドゴルフをするつもりであったのだが・・・・。雨になりそうであることを理由に、止めにした。

寛ぐMさんとキャンピー内部

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7時頃には皆が「眠くなったなー」。とは言ってもベッドを作らねばならない。気分が良くなってそのまま寝たいのに、この作業は辛かった。寝巻きに着替えもせず、歯も磨かず、バタンキューであった。小心者の僕は多分、車では眠れないであろうと覚悟していたが、アルコールは有難い。トイレに立った3時過ぎまで熟睡であった。夕方から雨になり、夜中には本降りとなった。トイレまで10歩の距離は有難かった。

早寝早起きで全員7時には目が覚めたようだ。相変わらず雨はしとしと降り続くが、寝袋の収納も、車の連結作業もしなければならない。寝袋の収納も要領を得るまでは結構時間が掛る。上手く畳めないと袋に入らないのである。

食堂は、この町ではこの時間どこも開いていないだろうと、霧島市のファミレスでとる事にして8時過ぎに出発した。2泊3日のキャンピングカーでの旅行初体験を終え、十分な満足感に浸っているMさんの運転も軽快であった。

早朝の為に交通量も多くない。ファミレスで朝食をとり我が家に着いたが、先を急ぎたいと言うMさん夫婦をそのまま見送った。数時間後彼等から電話があった。

数十年ぶりに国道3号線を、道の駅などに寄ったりしてゆっくり楽しみながら鹿児島市から北上しているとの事、水俣市のバラ園で自分の好きなバラを、主人がプレゼントしてくれたと喜ぶM夫人の声も幸せに弾んでいた。トラブルもハプニングも起きなかった今回の旅行に、誘ってくれたMさん夫婦にお礼を申し上げたい。

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キャンピングカー、同乗初体験  (1)

昨年10月5日のブログ「キャンピングカー展示会へ行ってきた」で記した如く、友人Mさんが予約した、牽引タイプのキャンピングカー「キャンピー」が彼の手元に届いて5ヶ月過ぎた。僕等は宿泊するときに必要な「寝袋」を既に買っていたが、そろそろ試乗時期かなと思っていた矢先、彼からの電話。南さつま市で開かれる「砂の祭典」にキャンピングカーで行きたいので、一緒に行こうとの誘いである。勿論二つ返事で彼等夫婦の到着を待った。

「SAND&FLOWERフェスタin南さつま」と銘打った今年の「吹上浜砂の祭典」は5月2日から6日までの日程で行われる。場所は鹿児島県南さつま市(旧加世田市一帯)県立吹上浜海浜公園の、かせだドーム周辺がメイン会場である。

その初日に行くことに決めたらしく、熊本から高速を使い姶良の僕の自宅まで来ることになった。普通車と軽自動車はETCを使えば1,000円で来れる特典があるのに、牽引車両は適用されないらしい。理屈的には2台分2,000円を支払えば良い様に思われるが、確か3,800円払ったとの由。少し合点がいかない。

昼前、やがて到着予定との電話。長距離を慣れない牽引車両の運転で、しかも連休のラッシュを無事に到着できるのか正直心配していたので、駐車場に安定した形で駐車したときは安堵した。

荷物を積み込んで4人で会場へと向かった。出来るだけ広い道を通るように気遣ったが、それほど心配することはなかった。僕が考えている程、運転は難しくないらしい。そう言えば、牽引免許が不要だとの由。それでも僕に運転しろと言われても、悔しいが僕には直ぐには出来ない。それでも今後何度か一緒に旅行するつもりだから、何時の日か運転する日が来るであろう。大胆さと器用さでは到底彼に及ばないのが悔しい。

あまり多く走っていない車なので、信号停車では隣の車から好奇の目で見られていることが判る。心配していた鹿児島市内を無事通過したので少し気が楽になったが、今度は峠の上りと下りが待っている。女性達の話題の中心は車ではない。食べることとそれに伴う体重増加の不安みたいだ。

無事会場に到着したが、2台分の長さが必要なために駐車スペースが見つからず、走り回るガードマンに恐縮しながら駐車した。

会場に到着した「キャンピー」

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「砂の祭典」ゲート

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花で描かれた文字と砂像

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入門したのは午後5時に近かったが、空は未だ明るく車も人間も増えていく。入場料800円を支払い入場する。昔、テレビや新聞で、製作した砂像は見たことはあるが、本物は今日が始めてである。著名な彫刻家の作品が多いので当たり前かもしれないが、実に精巧でリアルに出来ている。よほどの雨と強風でない限り、像が崩れることはないのだそうで、チョッと手で触ったらコーティング処理がされているようだった。

会場には沢山の売店があり、特に花を売る店が多く、僕は砂像も見たいが、最近興味が出てきた花も見たかった。約1時間観賞したが、後刻ライトアップされた砂像を見るための再入場に必要な、入場券にスタンプを押してもらい会場を出た。

砂像をいくつか。

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会場内の売店

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今晩一泊するキャンピングカーの駐車場を探さねばならなかった。近くにキャンプ場があることを知ったので、Mさんが管理事務所へ出向き、予約無しで停められるか交渉する事になった。実に幸運な事に交渉中にキャンセルの電話があり、オートキャンプ場を利用できることになったのである。色々な場面で幸運に恵まれる事が多いMさんであるが、ここでも又幸運を掴んだようだ。

40台の駐車、バンガロー9棟、常設テント40張り、フリーテント20張りのほか炊事・トイレ棟、シャワー・洗濯室などもあり、殆ど空きは無かったらしい。多くの家族連れが野外の生活を楽しんでいた。僕等もすき焼きにワイン、ビール、焼酎と大いに開放感を味わった。それでも8時半には一人で祭典会場に再入場し、ライトアップされた砂像をカメラに収め、流石に客が疎らになった会場を出た。

ライトアップされた砂像。

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女性達は食器を洗いに炊事棟に行ったが、我々は「キャンピー」の寝床を作る作業に取り掛かった。この車の標準仕様は2人用のベッドであるが、Mさんの注文で4人用に改造したらしい。特注品の第1号機なので、メーカーも知恵を絞ったに違いない。上下段の空間の狭さを少し我慢すれば、172センチの僕も全く窮屈を感じない。ただ、トイレの回数が多い人は、下段を選ばないと上段から降りる際に苦労することになる。ベッドとして使わないときはテーブルをはめ込み、当然飲食用として使える。疲れとアルコールの為に、慣れない車のベッドでも夜明けまで熟睡できた。

上段に寝たためか、夜明けに暑さを覚え目が覚め、ふと心配になった。密室状態なので4人が寝ると、酸欠になるのではと。でも今も生きているので大丈夫だろうと思ったし、天井についているファンのノブを廻したら、どうも空気が入って来た様に思われ、安心して又眠ってしまった。

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2009年5月 1日 (金)

「かのやバラ園」でバラを堪能。

鹿児島県ではこの時期、結構話題に上がる「かのやバラ園」には未だ行ったことが無い。話が纏まり、Hさん夫婦と我々夫婦4人で行くことになった。多分同所までは90キロ近くあり、高速道路が利用できないので約2時間掛るであろうと思った。

鹿屋市が近くなると随所に「バラ園」の標識が目立つ。訪れる人達が多いのであろう。予測通り2時間で着いた。

入場料600円也を払い入園する。見渡せば一面バラ一色、バラの前で記念撮影するベンチも用意されている。場内の説明版によると敷地は8ヘクタ-ル(24,000坪)で、4,000種のバラが50,000株植えられている由。

これだけ増やすためには、かなりの時間と労力を要しただろうし、株の多さから管理も大変であることは想像に難くない。場内を回るに従い、その評判に勝るとも劣らぬ規模や、見事な美しさに感嘆の声を上げる。真紅や、2,3の色のバラ以外に知らない僕は、余りに多くの色があることに驚きの声を上げる。

その筆舌に尽くせぬ見事さは、多くを語るより写真を見ていただきたい。昼食を取るために付設のレストランに入った。バラ色のカレーが美味いとは思えないがそれが意外と評判で、食べている人が結構いた。

評判のバラをどうぞ!

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バラ色のカレー

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2時間余り、園内のバラの見事さを十分堪能した。昼食後、当然売られているであろうバラの鉢植えを探し、今年はあと2回は花を付けるとの説明があった、黄色がかった小振りのバラを買い、満ち足りた気持ちで鹿屋市を後にした。

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2009年4月27日 (月)

夜桜ならぬ夜フジを見に行った。

少し前の話であるが、翌日が荒れ模様であるとの予報をTVで見た家内が、夕方帰宅した僕に「今から藤の花を見に行きたい」と言う。強風と雨で花が散る前に見たいということである。

なんとなく疲労感を覚えていたので、半分仕方なく車で40分くらいは掛るであろう、隣町の霧島市にある和気神社へ向かった。多分着く頃は日も暮れて本当の藤の色は見れないだろうと思いながら、温泉街で少しは名の通った日当山から逸れて、結構奥深い山の中にある神社へ急いだ。

僕は知らなかったのであるが、地域を上げて「藤祭り」を盛り上げており、夕方にもかかわらず4,5台の車が駐車していた。街道には「ふじまつり」と書かれた幟が何本も立てられて、道路整備も進行中であった。

同所は和気 清麻呂を祭った神社で、坂本竜馬とおりょうが日本で初めて新婚旅行をしたと言われ、その旅行で此処に滞在した事実があり、記念碑も境内に建てられている。

この時間まで受付担当者が2人もいた。300円也の入場料を払い神社横の藤棚に向かう。夜も見物に来る人も多いのだろうか、数箇所にスポットライトが棚の下方から当てられている。

薄暗い藤棚の下に見える藤の花は、昼間に見れば綺麗なのかもしれないが、夕方にはさほど美しくは映らない。棚に入れば一面垂れ下がった藤は不気味ささえ覚えるが、暫く近くで眺めると確かに、言うところの「藤色」を楽しめた。白色の藤もあることも初めて知った。家内は少し甘い匂いがあるというが、僕にはあまり匂わなかった。

どんな草花でもそれを何時見ても、良く観察すると綺麗で可愛いものだ。狭くて庭とは到底呼べないような我が家の通路にも、ブロック塀の上にもプランターを置き、草花を植えている。下駄箱の上や廊下に置いている植物も、玄関に入ると僕を迎えてくれるようだ。若い頃は全く関心の無かった草花に、大いに関心を向けつつある最近のこの身を、老いの忍び寄りと診るは穿った見方か?

和気神社に、娘の安産と生まれ来る孫の健やかな成長を祈願し、暗くなった山道を下った。

和気神社の藤

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同上

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八重の藤

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五稜郭の藤

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坂本竜馬とお龍、日本最初の新婚旅行の地

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和気神社

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2009年4月20日 (月)

宮崎県三股町のしゃくなげの森の見事さ!

三日前テレビで観たらしい。家内が突然、宮崎の三股町にしゃくなげの綺麗なところがあるらしいので、見に行きたいと言い出した。旅行から帰宅した後、風邪の具合は少しずつ回復し、咳もかなり治まったし、県は異なるが、その町からそう遠くない町に僕の従兄妹が住んでいて、彼女等にも会えるので行ってみるかという気持ちになり、昨日8時過ぎに家を出た。

末吉までの高速道路と国道10号、および県道を使い、約1時間45分位で到着した。三股町の市街地から10キロ程度山間に入った所で、その近くには6万本のツツジと200本の八重桜の咲く「椎八重(しいばえ)公園」があり、日曜日のために結構な通行量であった。かなり暑い日で、確か広島や大分で30度を越えたとのニュースを聞いたが、その時間帯はさほど暑さを感じることは無かった。

駐車場には30台近くが駐車し、800円の入場料はいかにも高いと思ったが、当然入場した。貰ったパンフには「日本一のシャクナゲ園」と印刷されている。

係りの人に面積とか植えられてる本数を聞いた。彼女によると「面積は3.5ヘクタールから4ヘクタールで約500種のシャクナゲが約30,000本植えられている」とのことである。

はっきり記憶してないが、経営者の男性が夫人への感謝と愛の贈り物としてシャクナゲを贈った事が切っ掛けで、この森にシャクナゲを植え始めたらしい。暫く順路に従い歩いて行くと、それはまさに森と呼んでも可笑しくないシャクナゲの群生が続く。客も多くなり殆どの人がカメラを動かし始めている。

実に沢山の種類があることを知った。少し盛りを過ぎたものもあれば、今から開花するであろう種類もあった。兎に角その美しさに見とれて、僕も50回くらいシャッターを切った。この森を管理・維持するには結構な費用が掛るだろう、1時間以上も楽しめたのだから800円でも安すぎるような気持ちに変わった。

森の中の売店で売っていた、リキュールに漬け込んだシャクナゲの葉を入れた饅頭が美味しそうに見え、食べている人に釣られて食した。餡は入ってないがまあ甘かった。

売っていた「ヤマメの甘露煮」を従兄妹の土産に買い、未だ一度も通ったことのない山道をナビを頼りに大崎町へ向かい、半年振りに息災を確認しあった。シャクナゲの森から三股町までの道路は、訪れる人達の車でかなりの渋滞で早く出て来て正解であった。

思いついての日帰り旅行であったが、シャクナゲの美しさに心を洗われた。最近集め始めたミニ盆栽を道の駅で買って、病み上がりの運転も気にならず国道10号を自宅へと急いだ。

シャクナゲの森に咲いていたシャクナゲ。

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飛騨高山、白川村、彦根市を旅した・・・・・(3日目)

予報どおり朝から小雨だった。小雨に煙る琵琶湖も風情はあったが、今日は晴れて欲しかった。相変わらず風邪の諸症状は改善されてなく、家内も同様である。晴れだと、思い切って竹生島遊覧に出ようとも考えていたのであるが、止めにした。カラオケで良く歌う、「琵琶湖周航の歌」の竹生島や長浜等を眺めてみたかったが、次回の楽しみにとって置こう。

市内の外れにあるホテルなので、シャトルバスが出た。彦根城に着いた頃は傘が必要で、我々は彦根城と彦根城博物館とのセット券を買い、ここを十分に見学することにした。ただ腰の痛みがあり、歩くのが億劫であったが約2時間強、ここでも知るは楽しみなりを実感した。雨にも拘らず観光客は多かった。

彦根城博物館は彦根の歴代藩主だった井伊家の豊富な美術工芸品や古文書等が多く展示され、甲冑・刀剣、能面・能装束、雅楽器、茶道具、絵画など、僕にはその価値の大きさは判らないが大名家に伝わる品々を興味深く観察した。

特に「井伊の赤備え」の言葉は以前から承知していたが、まさに藩主はじめ家臣全てが朱塗りの具足をつけたと言われるその実物を、目の前で見ることが出来て幸せであった。映像でしか見たこともない能舞台も付属しており、実物を見たのは初めての経験であった。

僕は旅行すると最優先にお城を見学するので、結構多くを見てきた。城内には素晴らしい庭園である「玄宮園」等もあり、この彦根城の城地の広さは他に引けを取らないように感じた。天守は国宝に指定され、姫路、松本、犬山城と共に国宝四城の一つであるとのことである。

彦根城

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天守に使用されている木柱

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鉄砲狭間(テッポウザマ)・・・敵の来襲に備え矢で防戦する際の狭間。外に見えないようにしっくい壁が塗り込められている。実戦の際は壊して使用する。

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矢狭間(ヤザマ)・・・鉄砲狭間と同じ使い方をする。

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玄宮園・・・雨のため訪れる人は少なかったが、素人目にも落ち着きのある名庭園であることが判る。大名は優雅な生活をしていたのだ。

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同上

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いよいよ本降りになった頃、博物館を退出しようとしたら係員が出てきて「今から彦にゃんのパフォーマンスの時間です」とアナウンス。TV等で偶に目にする格好は僕も知ってはいるが、大して興味はない。でも折角だからと家内が言うので室に入った。十数名の殆どが女性、しかも皆若い。彦にゃんが現れると女性達はキャーキャーと大騒ぎ。あんな重たい被り物で大変なんだろうなーと僕は同情するが、一緒に撮影するサービスの順番が今しばらく掛るので諦めて席を立ち、城の見学に向かった。

話題の彦にゃん。

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もう少し時間を掛け心行くまで彦根城や彦根市を探訪したかったが、疲れの上に雨である。琵琶湖遊覧は数年前に大津市で経験はしているが、今回は湖の北部や竹生島が目的であった。次回訪問は何時になるのか、本当に実現可能なのか、心を彦根に残しながら駅前のビルで昼食を採り、姫路行きの電車へ乗り娘達が待つ神戸へ向かった。

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2009年4月18日 (土)

飛騨高山、白川村、彦根市を旅した・・・・(2日目)

夕べ早く寝たせいか、それでも喉が痛かったが早く目が覚めた。誰が言い出したのか判らないが「朝市」へ行こうと決まった。娘と孫と娘の義父3人はそこまで歩くと言う、僕と家内と娘の義母3人は車で行くことに決まった。娘婿は眠たいと言って旅館に残った。高山には2つの朝市があるらしい。一つは「宮川朝市」一つは「陣屋前朝市」で、毎日開かれている。7時過ぎであるから少し早いと思ったが「宮川朝市」へ向かった。そこは野菜や果物、菓子をテント一杯に広げた露天が店を開けていた。川沿いの桜も満開。今まで行ったことのある朝市に比べるとそんなに規模は大きくない。客も疎ら、昼まで開かれるので今から増えるのだろうか。東南アジアの観光客十数名が盛んに写真を撮っていた。土産にと家内達は色々買い込んでいた。

宮川朝市

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朝食時、旅館から貰った、朝市のみで利用できる金券を使用しなかったことが判った。「4,000円もあるから勿体無い、次は陣屋前朝市へ行こう」ということに決まり、チェックアウト後直ちに昨日行った陣屋へ向かった。結局金券以上の買い物をしたが、それが金券配布の付け目であろう。

陣屋前朝市。

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白川村へ急いだ。高山以上に訪れたい所だったので心踊る。高山から昨年7月に前線開通した高速道を利用し、40分くらいで到着した。雪の中の合掌造りの集落が頭に残っているので、どうも今一つ、ピンと来ない。平日なのに観光客が多い。ここでも沢山の外国人観光客を見た。僕の小さい頃と違い、日本の至る所で多くの外国人を見る。

やはり合掌造りの民家は雪の中が似合う。雪の中に佇む合掌作りの民家のイメージは、容易に脳裏から離れない。それでも屋根を葺き替えている家を見たし、本物の合掌作りを見て感激した。改築等には幾らかの制約があるらしく、そのための経費を稼ぐためなのか、殆どの家が何らかの商売をしていた。民宿とか喫茶店、食堂等々。平成7年に世界文化遺産に指定された、日本の貴重な歴史的な財産である。天気が良かったため、孫は元気に走り回っていた。

白川郷の山に残る雪。

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屋根葺き替え作業中の民家。

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合掌作りの民家。

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5階建ての合掌作り。

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長さ11mもの柱(合掌柱)が全体を貫く5階建ての住宅、250年以上続く長瀬家。

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集落の一部。

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十分堪能したので、次の訪問地彦根市へ向かった。途中、高速道の脇に高く積まれた雪を見た。南国育ちの者にとって、北国は考えられない位の寒さの環境なのであろう。

道路わきに積まれた雪。

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4時過ぎ、2台の車は彦根市に到着して、彦根城を遠望した。今から入城しても全てを見ることは出来ない。僕等2人を残して彼等は神戸へ帰る予定であるので、ホテルへ送ってもらうことにした。正直体調は悪い、相変わらず悪寒が襲う。早く休みたい。琵琶湖湖畔に建つホテルは、これも娘が手配してくれたもので、既に支払いも済んでいた。全員8階の部屋に集まり、そこからの眺望を楽しんだ。西に沈む真っ赤な太陽を琵琶湖上に見たときは、それは絶景であった。この日も夕食を済ませ、シャワーを浴びた後早々に寝込んだのである。

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飛騨高山、白川村、彦根市を旅した・・・・・(1日目)

5ヶ月ぶりの神戸行き。娘夫婦にちょっとした喜びがあったので、彼等が旅行に誘ってくれたのである。娘が神戸に嫁いで早6年、年に2,3回は神戸に行って来たが、折角なのでその都度近隣の観光地を日帰りや1泊で楽しんだ。

何時も思うことだが、鹿児島から神戸は実に遠い。九州新幹線の完全開通迄の辛抱だろうが、2回の乗り換えは面倒である。ANAが65歳以上の航空券を条件付の、9,000円で売り出したが、席数に制限があり買えなければJRを利用しなければならない。僕らはJRのジパング倶楽部を利用し4割引で購入できるので、ANAの賭けを避けてJRで行くことに決めた。

今回は僕の希望を汲んで以前から訪ねたいと思っていた、飛騨高山、白川村、彦根市に行くことになった。欲を言うと郡上八幡市まで含めたかったが、時間的に無理だと判り諦めた。今回も娘一家3人と、娘婿の両親に我々夫婦の計7名が車2台に分乗し、一日だけは高速道料金1,000円制度を活用する事にした。

名神高速は渋滞を覚悟したが、混んだのは中国道が接続する吹田付近だけで、後はスムースであった。ご丁寧なことに僕等は二人とも、旅行前から風邪を引いていた。マスクはしていても車の中での咳は相手に気を遣う。その理由から一刻も早く目的地に着きたかった。

一宮JCTから東海北陸道へ入る。流石にSAは満車で、1,000円の効果は大である。SAで簡単な昼食を取り、デジカメで孫の写真を何枚も。進むに従いトンネルも多くなり、上り坂が続き高地へ向かっていることが実感される。多分、ぎふ大和IC付近だったと記憶するが、九州では見ることが出来ない雪山が前方に見えてきた。感激である。この時期雪山を見れるのは。

ぎふ大和IC近くで見えた雪山。

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孫は満腹と喋り疲れで寝入っているが、運転者である娘婿の父親と、母親と我々の会話は断続的に続く。相変わらず我々の咳も治まらず、そのたびにマスクを手で押さえ、相手に迷惑を噛めないように気を遣う。彼は何度かこちらへ来たことがあるらしく、見える山々の名前も詳しい。いかにも遠い北国へ来たような感じを受けつつある頃、出発から4時間半以上経って飛騨高山市の入口である飛騨清見ICを降りた。

飛騨高山市と雪山。(飛騨清見IC付近)

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彼は知った町の如く車を走らせ、高山市内を訪れる殆どの人が立ち寄るという「高山陣屋」へ向かった。先日、ネットで今回の旅行で訪れる名所旧跡、観光スポットは調べプリントし、その内容を一部話していたので彼は十分承知していた。歴史好きのため時間が許せば何時までも見学したいが、グループ旅行だとそれは憚られる。娘夫婦は孫を連れ、街中へ消えていった。

パンフレットによると高山陣屋は、元禄5年(1692年)に飛騨を幕府直轄領にして以来、明治にいたる177年間に25代の代官、郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察の政務を行ったそうで、御役所・郡代約宅・御蔵を併せ「高山陣屋」と称するとのことである。全国で唯一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存する為、20億円を投じて復元修理を行ったことも説明されている。

高山陣屋入口

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小京都とも呼ばれるらしく、江戸時代の面影が残る風情ある町並みには、外人観光客も多く英語、中国語も聞かれた。

市街地

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外人観光客も多い。

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我々が訪れた頃に、平年より1週間早く桜は満開になったようである。観光客の多さにも驚かされたが、殆ど塵一つない通りの綺麗さにも脱帽であった。

桜満開の高山市を流れる宮川。

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風邪がひどくなり、腰痛と悪寒、咳が激しくなった。それでも何でも見てやろうとの貪欲な気持ちは失せない。もう二度と来ることはないであろうと思うと、一分でも歩きたいので、僕らを残して他は旅館に行って貰った。

しかし、もう限界であった。高山市でも老舗の旅館に着いたときは辛さは最高潮。家内は僕に比べ早く引いた分、治りも少々早いのか咳が出る位であった。かなり贅を尽くしたと思われる造りの温泉は素晴らしく、悪寒と腰痛は治まったかに思えた。飛騨牛をメインにした料理は、風邪のために味覚は半減していたがそれはそれは美味であった。貧乏性の僕はこんな高価な旅館に泊まったことはない。今回は全て娘夫婦が旅行代理店の積み立てで計画したもので、共稼ぎしながら少しずつ貯めたであろう事を想うと胸が塞がれたが、有難く思い可能な限り残さないよう食べ、飲んだ。しかし1時間半位経った頃悪寒が再発、皆に断り布団にもぐりこんだのであった。

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2009年4月 8日 (水)

「南国暮らしの会」情報交換会と僕の海外ステイ。

三年前に加入した「南国暮らしの会」九州支部第1回情報交換会に参加した。1回目だけは熊本での開催が決まっていて、残り2回か3回は福岡で行われる。

その会の存在は昔から知っているわけでは無かったのだが、定年一年前の59歳頃、テレビでタイ国かマレーシア国で暮らす邦人の紹介があり、それまで日本で暮らすことしか考えていなかった僕にとって画期的な映像であった。その後、今から南国で暮らそうと考える人向けに書かれた本を数冊読むうちに、僕もやってみようかと言うよりやりたいと考えるようになったのであるが、当時は年老いた父と家内との生活で実行に移すことは不可能に近かった。平成16年に父を見送って後、本に書かれた上述の団体を選び加入した。

この会は南の国でのロングステイやショートステイに関する沢山の情報を与えて呉れ、全く何も知らない時期に出席した情報交換会や、熊本地区の会員によるサロン会などに出席してみても、その和やかな雰囲気にすっかり気持ちが良くなり、目的を一つにした人間の集まりがいかに絆を深くするものかを認識した次第である。

会への参加に先立ち、先ずは南の国へ行ってようと思い、友人夫婦と家内4人でタイ国へ行った。シンガポールから着いたバンコクは、到底我慢出来る気温ではなかった。僕はかなりの暑がりでこの暑さは限界を超えていた。タイ国でのステイに諦めはついたが、この旅行後直ちにこの会への加入手続きを行った。

タイ国でのステイを諦めてはいたが、九州支部のチェンマイ下見ツアーには家内と共に参加した。どうせバンコクと同じくらいの気温だろうと思ったが、実はそうではなかった。読んだ本の全部にチェンマイのステイ者が多いことは書かれていたが、4,5日過ごす間にその快適さになるほどと納得がいった。11日程度の滞在であったが、近隣のツアーも経験し、正直後ろ髪引かれる思いで帰国した。同会のチェンマイ支部の方々の二度にわたる歓迎会や、3回のゴルフプレー等至れり尽くせりの面倒見の良さは心に沁みた。

それから8ヵ月後、忘じ難くと言えば大げさであるが、友人夫婦と4人で再度チェンマイへ行った。今回はプライベート旅行であるから当然のこと全ての手配を個人で行った。パックツアー以外経験のない僕には大変勉強になった。その時も10日間前回と同じホテルに泊まり、前回同様チェンマイ支部の方々の暖かい歓迎に頭が下がった。

今年は、シンガポールからのクルージングでプーケット島へたった一日ではあったが立ち寄ることが出来た。僕の希望はせめて半年くらいのロングステイをしたいのであるが、家内はどう考えても同調する気はない。一日何かしていなければ納まらない性格ゆえに、遊んで過ごすなど到底出来っこないからである。譲歩しても2ヶ月以内のツーリストビザでの滞在になろうが、それも現実味ないのでは、夢もこれまでかと諦めが先にたってしまう此頃である。それでも家内はチェンマイの町には思い入れがあるらしく、もう一回マッサージに行ったり、ソンテウに乗ってワローロット市場へ行きたいなどと口走ることもあるので、来年早い時期までにもう一回はチェンマイ訪問が実現出来るのではと、これが僕の一番の楽しみになっている。

今回の会合は東京の本部から理事長と理事の2名が出席、加え熊本から選ばれている副支部長夫妻の熱心な活動により、海外暮らしに興味のある方々の参加を呼びかけたところ20名弱の参加があった。過去にない取り組みらしく、この会の広報活動の一助になった。僕は家内と鹿児島を午前6時半ころ出発して、チェンマイへ共に旅行した熊本の友人夫婦を誘い合わせ、会場つくりの手伝い程度しか協力できなかったが、会社勤めの時代と違いなんとなく楽しげに仕事が出来たし、友人も同じようなことを思ったらしい。4月から加入した別の友人夫婦は、急用で参加できず残念なことであった。

理事長からはこの会の目的と活動内容、さらには本人がロングステイしているハワイの情報を、理事からはチェンマイでの情報、特に何をして過ごしているのかと、生活費にいくら掛るのか等皆が一番知りたいことなどの発表があった。

会議前のオリエンテーション

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理事長による報告

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「南国暮らしの会」の会員数、支部

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生活費については2人で1ヶ月17万円くらい必要で、日本とチェンマイの航空費用を計算に入れると、最低4ヶ月滞在しないと年金だけでは暮らせない等現実味のある話もでた。

バンコクで日本語教師をしている会員からは、兎に角暑いが、物価は安い、人柄は良い、果物は美味い、食べ物も美味い、ゴルフは安く出来る、交通事情は良いなど、惚れ込んで生活していることが発表され、チェンマイと日本を行き来しながら夫人と共に生活を楽しんでいる会員からも、ほぼ良い事尽くめの暮らしである事が紹介された。この方は我々と最初に下見旅行をした仲間であるが、その10日間の間に、賃貸コンドミニアムの契約をしたくらいチェンマイに嵌り込んだ人で、その決断力には驚かされた。

チェンマイについて支部会員の報告

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理事によるチェンマイの日常生活について

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バンコクの日本語教師である支部会員からの、バンコクの下町生活についての報告

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その後各会員からは、司会者からの質問に答える形で南の国に対する憧れとか、熱い想いなどや体験発表が行われ、さらにはオープン参加した方々との質疑応答があり、あっという間の3時間が過ぎた。夜は会員だけの飲み会があり、和気藹々のうちに第一回の情報交換会(報告会)を終えた。

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2009年3月22日 (日)

初めてのボランティア!

僕が住む町では、自治会住民への連絡事項は、文書と数箇所に設置されたスピーカーを通じて行われ、実に良く徹底されている。

近くを流れる川(錦江湾まで約1,500メーター上流)で、その名も「思川(おもいがわ)」と言う床しい名前の川の清掃作業が、有志一同で行われる旨昨日朝のスピーカーで連絡があった。記憶している限り、始まって未だ1年も経っていないようだ。知っていて参加していないことに、少しの心苦しさを感じていたので、たまたま早く起きた時間を利用して様子を見に行くことにした。車で3分の距離である。

我々の自治会長が来ており、開始時間まで30分以上もあるのでこの活動について聞いてみた。思川流域のいくつかの自治会から有志が参加して1ヶ月に1回、第3土曜日に8時から約1時間、清掃作業や植樹等を行い川全体をきれいにする活動であるとの事。所謂ボランティア活動である。

いつかは、ボランティアと呼ばれる奉仕活動をしたいと考えていた。退職時に「海外ボランティア」に応募しようと、本気で考えたのだが、先方が求める専門知識が自分に無いことに加え、老齢の父との生活から断念した経緯があった。

早速うちへ帰り作業着に着替え、開始時間10分前に集合場所へ着いた。何時もは約70人位の参加者らしいが、数えたところ本日は50人弱であった。植樹などの作業時は多く集まるらしい。8割は高齢者であるが、中には30才台と思われる若い夫婦や子供も参加しており、実に感心な人達もいるものである。たまたま町長も参加しており、彼や担当自治会長の挨拶後、作業手順、注意点などを確認しあい作業に掛った。本日の作業は集合場所から、上流、下流の次の橋(約400メーター)までの、左右岸の河川敷や法面に散乱する燃えるゴミや缶などの不燃物を回収するものである。

思川(おもいがわ)・・・北側が上流

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左右両岸に植えられた紫陽花

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作業中橋にかけたストリーマーと旗

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写真のごとく、この道が「あじさいロード」と呼ばれるようになるよう、両岸にあじさいを植え続けていくのであろう。まだ、この名前は一般化されていないようだが、彼らの熱意と努力が実り、やがて皆がそのように呼ぶ日が必ず来ると僕は信じる。50名弱が上流、下流の左右岸に分かれ作業が始まった。思ったよりゴミは多くなかった。現役時代、会社の創立記念日は清掃活動を自主的に行っていた経験から、空缶がかなり回収できると予想していたが、約400メーターの間に僕が拾った空缶は10個足らずで、ペットボトルと空瓶も合計で同じくらいの本数であった。僕が拾ったのではないが、大型ゴミは自転車2台であった。

参加者達(紫色の帽子が今回作製され配布された)

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作業するボランティアの方々

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回収したゴミ

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1時間強で作業は終了した。当然汗びっしょり、長靴を持ち合わせていなかったので、スニーカーを履き、空缶より多かった犬の糞に気を使いながらの作業であったが、実に爽やかであった。月1回では少々物足りなさを感じるが、幾らかでも町の為になるのであるなら、今後継続して行うつもりである。

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2009年3月13日 (金)

孫は熊本城の「一口城主」だ!

生まれ育った熊本の地から、鹿児島へ転居してやがて2年。墓参や他の用事で毎月1回以上熊本へは行くので、街の移り変わりは良く目にすることが出来る。

熊本城の「一口城主制度」については、住んでいた頃から承知していたが、申し込みをするまでの思い入れは無かった。今度新たに 新「一口城主制度」がスタートした事を聞き、長年お世話になった熊本市へのささやかなお礼の気持ちと、故郷を離れたことで熊本との縁を、何らかの形で持ち続けて行きたいとの想いから、是非その制度を活用し寄付をしようとの気持ちが高まった。

当初、僕と家内と2口を予定していたが、今年2人目の孫が誕生予定なので、その誕生を記念して、今回は神戸に住む上の孫の名前で申し込み、次の孫が生まれたら、直ぐ次の孫の名前で申し込むことにした。僕ら年金生活者にとっては大金であるが、孫達の健やかな成長を願う気持ちに加え、上述した熊本市への感謝と今後の発展を願う気持ちを表し寄付を行う事にした。

11日、墓参やいくつかの用事を済ませた後、熊本城へ行った。中学時代から何十回と無く来たことがある城であるが、何時行っても観光客が多い。城門の中に今回の制度の申し込み場所が作られ、3組の方々が申し込みをされていた。

担当者から一通り説明を受け、申込用紙に必要事項を記入後1万円を支払い、手続を終えた。これで僕らの孫は熊本城の一口城主になった!目的である「第2期復元整備事業」に幾らかでも役に立つのであれば、満足いく寄付金である。熊本市の更なる発展を心から祈りたい。

ここで、リーフレットからいくつか抜粋し、箇条書きでこの制度の概要を述べておきたい。

1.熊本市は平成10年度から熊本城一帯の復元整備に取り組み、熊本城を往時の姿に近ずける整備計画を立て、19年度までに本丸御殿をはじめ7つの建造物の復元を終えた。「一口城主制度」により、国内外27,000人から約12億円の支援があった。

2.熊本城の次なる100年に向け「第Ⅱ期復元整備事業」を実施し、御幸坂から見た往時の熊本城を復元する。そして前回の制度に新たに「城主パスポート」の発行を加えた、新「一口城主制度」を開始する。

3.募金開始は平成21年1月1日、募金目標額は7億円で寄付をした全員の名前を「永代帳」に記載し、永久保存する。

4.1万円以上の寄付者を「一口城主」として、「城主証」を渡し、名前を「芳名版」に記載して、天守閣に掲示する。(申し込み月別に都道府県ごと、氏名の50音順に掲示)

5.個人で寄付をした人には「城主パスポート」を発行、有効期間は一口1年間として、口数に応じて期間を設ける。9口の場合は9年間である。パスポート提示で、無料で入城できる。

6.寄付金は法人税において損金算入が認められ、所得税の寄付金控除および住民税の寄付金税額控除の対象となる。

芳名版見本

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城主証見本

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2009年2月 6日 (金)

初めてのクルージング その8

4時過ぎにトイレに行ったらそれから眠れない。家内も目が覚めたらしい。二人でデッキに出ることにした。雨でもないのになんだか湿っぽい、一時雨が降ったのかもしれない。南国とはいえ、夜明けの海上は寒さを感じる。さすがに乗客の姿は見当たらないが、一人、二人乗組員が僕らの前を通り過ぎる。海上は未だ真っ暗。暫くデッキを歩いたり遠くに見える灯かりを見たりして過ごしたが、6時のモーニングコールを思い出したので、部屋に帰ることにした。日本語の聞こえないテレビは、見ててもつまらないがそれでも電源を入れた。あと、2,3時間で下船である。一抹の寂しさがこみ上げる。何時も旅行で感じることだが、日程の後半は時間が過ぎるのが早く感じられる。今回ももう少し旅を続けたいとの思いが、そのような気持ちにさせるのであろうか。

夜明けのデッキ

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入港直前のシンガポール港

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何時もより早く、6時過ぎには船内での最後の食事を、何時ものメニューで採った1時間位あとに,船はシンガポール港に接岸した。

船内での買い物、郵便切手、食事のたびのアルコール代金などの支払いは、先に述べたシーパスカードで処理することになっている。その明細書は昨夜のうちに部屋に届けられ、受領書と照合し間違い無いことを確認していた。

船内係員の指示で下船するが、各国への入国審査と同じ面倒に加え、そのシーパスカードのチェックも加わるので時間が掛ると案じていたが、意外と短時間で下船手続きを終えて、再びシンガポールの地を踏んだ。

バスに乗り込み約45分、出国手続きの後、対岸に見えるマレーシアのジョホールバルへ向かう。その間約15分位か。この地は3年前にも訪れており、観光場所もほぼ同じであるようだ。以前より街がきれいになっていて、建物も多くなり、大きな建物が増えたように感じた。前回は税関近くのトイレで、大変な目にあったのでシンガポールでしっかり済ませてきた。小さな穴に向かい済ませた後、汲んであった水で流す大変な作業であったから。

ジョホールバルでは王宮、イスラムのアブバカールモスク、マレー村、更紗工場などを見学したが、さすがにイスラム教については、ガイドが詳しく説明してくれた。マレー村では熱帯の樹木、果樹が多く植えられ、若者達が現地の楽器で日本の童謡を演奏、踊りを披露してくれた。舞台にはお金を入れる透明なプラスチックの箱が置いてあり、結構な量のお金が入っていたが、今回の観光客は誰も入れなかったようだし、僕も入れなかった。お金が惜しかった訳ではないのに、何故気持ちを表さなかったのか悔いが残った。付属した店で錫製の冷酒用グラスを、少々高価であったが日本円で買った。未だ若い20台の男性の実に上手い日本語での錫の説明や、それを我々に勧める話し方、礼儀正しさに感じ入ったからである。

イスラム アブバカールモスク

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ゴムの木

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バナナ

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マンゴスチン

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マレー村で見た結婚式で新郎、新婦が座る椅子

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美味しいマレーシア料理のバイキングで昼食を済ませ、2時過ぎまたシンガポールへ向かった。4時過ぎからインド人街、アラブ人街、チャイナタウンを散策する予定が組まれている。

チャイナタウン

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旅行中、1,2度は免税店での買い物の時間が取ってある。チャイナタウン散策後、免税店へ。僕は殆ど土産品は買ってるし、特に欲しい物はない。正直言うとあるのだが、高価で手が届かず、はなから諦めているので考えようともしない。入手可能なのは、食品くらいだろう。免税店を出て、そこで友人達と別れ、家内と二人で許された約1時間半でオーチャード通りを散策する事にした。さすがに有名な通りである。特に今日は金曜日ということもあって、人、車の多さには驚かされる。人種も様々である。日本ではデパートのブランド品のコーナーへ立ち寄ることも無いが、たまたま見つけた服のブランド店に入った。さすがに高級であることが素人の僕にも解るが、其の価格も半端じゃない。何時ものごとく「えい思い切って」と、喉まで出掛ったが、ハンドバッグに下げる小さな時計を一つだけしか買わなかった家内に遠慮して、買えなかった。買い物、特に旅先での買い物は買ってしまった後悔より、買わなかった後悔のほうが多きいことを何度も経験しているので、後悔するのではと思ったが、さすがに額が大きすぎたのか、殆ど其の品物を思い出すことも無く過ぎた。

オーチャード通りの賑わい 1

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オーチャード通りの賑わい 2

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夕食はシンガポール名物という「スチームポート」と呼ばれる、日本の鍋物と同じ料理であったが、店主のアルコール代金を集める態度があまりにも性急で、飲み終えてから、あるいは時間を置いての請求であれば許せたのであろうが、テーブルに配るや直ちに代金回収を始めた。普通、食事を終えたか、終えそうな頃を見計らって請求に来るのがマナーのように思えるので、これには何名かが不快感を表し始めた。たまたま、いわゆる食べ放題であったので、其の不快感を晴らす為か、食べ切れなくなっても食材を何度か追加して、結局食べ残しを作らせた。大人気ない仕業ではあったが、時間が迫っているわけでもないし、まして高々ビール代金を払わないはずは無いのだから。よほど腹に据えかねたのだろう。まさに下手な商売の典型である。

ま、こんなこともあったが腹も満たせたので機嫌を直し、シンガポールから日本への出発は午前1時10分であり、かなりの余裕があったが、そのままチャンギ国際空港へ向かった。8時頃着いたが、まだまだ時間はたっぷりある。旅行社から依頼されたアンケートを書いたり、待合室で写真を撮ったり、床に寝そべったり、なんとか時間を潰した。

ほぼ、定刻どおり1時10分頃離陸、約6時間の飛行である。小心者の僕は航空機ではなかなか眠れない。多分、全く眠らなかったことは無いと思うが、熟睡など出来るはずがない。何時も睡眠導入剤を持っていくが、飲んだことがない。とうとう今回も飲まなかった。僕はビールを注文して、アルコールの力で眠ろうとしたが無駄であった。過去に、バンコクから同じ時間帯に出発する便で帰国した経験が二度あるが、其の時もやはり眠れなかった。それでも今日は朝食の機内食は残さず食べたし、朝からビールも飲んだ。爽やかであった。

偏西風が強かったのであろうか、1,000キロを越す速度で、予定より20分も早く、7時40分には福岡空港へ到着した。驚いたことに福岡は雪の朝を迎えていた。数時間前は30度以上の暑さで、30数度の温度差である。入国審査に結構な時間が掛ったが、全員無事で帰国できた。友人が早期に申し込んで呉れたお陰で、いくつかの恩典に恵まれた。旅行代金の割引、各国の出入国カードの記入サービス、スーツケース一人1個を自宅から福岡空港間の往復を宅配してくれるサービスである。お陰で行きも帰りも小さなバッグ一つで身軽であった。熊本の友人宅で車を乗り換え鹿児島へ向かったが、途中眠くなったら危険である。温泉センターで入浴、仮眠を取り、早めの夕食も済ませ高速道路を自宅へと急いだ。

クルージングがどのようなものであるかは、今回経験して解った。ただ、航海期間が短かかった故であろうか、あるいは僕が記録を撮ることに時間を割き過ぎ、落ち着いてゆったりした時間を持たなかった所為であろうか、あるいは下船しての観光が多かった所為であろうか、クルージング本来の良さ、あるいは目的と言うか、船内でデッキチェアに座り海を眺めたり、本を読んだり、肌を焼いたり等、船内滞在時間を多く持った、所謂スローライフを余り実感できなかったのは悔いが残るところである。

今回も各地で感じたことであるが、外国人の日本語の上手さである。何故、難しいとされる日本語を年少の男女が上手く操れるのか、僕にとってはかなりの驚きである。田舎の食堂、土産品店の、こう言っては失礼だが高等教育を受けていないように見える人達が、流暢に日本語を話す。ガイドなら当然であるが、彼らはどこで学んだのだろう。日本人観光客相手の仕事ゆえ、努力した結果かもしれない。彼らが大きく見えた。

翻って、我々日本人はどうであろうか。長年習った英語もなかなか話せない人が多いと聞く。かく言う僕も、中学から大学一般教養時代迄の7年半勉強したのに、英語力を備えていない。小学生に英語を教えるかどうかで、議論されていた時期があって、何年後か後に実施されるそうだが、1年でも早く教えるべきである。我々の時代は、殆ど文法中心の英語しか教わらなかった。スピーキングやヒアリングのテストなどは無かったし、日本語訳と文法のテストが殆どであった。当時は英語の先生も殆どが日本人だったし、今みたいに外國人の英語教師(あるいは助手と呼ぶのであろうか)が教える学校も殆ど無かった。しかも当時の日本の先生達は留学の経験もない人達が多かったと思う。其の方々から教わった僕らの英語力は、推して知るべしである。僕は学者ではないから、学習時期についての理論的根拠は持ってないが、「習うより慣れろ」が一番の近道だと信じているので、記憶力が旺盛な子供時代から英語に接した方が効果大であると考える。僕の孫は3歳過ぎから外国人について習っている。これだけ街に外國人が住んでいるのだから、彼らを師としない手は無いだろう。昭和28年中学1年生の時、街に殆ど外国人を見ることも無かったが、たまたま我々が進駐軍と呼んでいた若い兵隊が運動会を見に来た。習った英語を使いたくて「Who are you?」と呼びかけ、彼が自分の名前を名乗ったときの嬉しさを思いだしてしまった。

旅行記だからにこんな所まで言及するつもりは無かったのだが、東南アジアの方々の日本語の上手さに驚いたことから派生して、日本人の英語力まで批評めいたコメントをしてしまった。この文を作成中、私が所属する、南の国で暮らすことを目的にする会のご夫婦からスカイプで呼ばれた。彼らは先月末から二人で、シンガポールに7泊してツアーでは味わえない旅をしてきたとのことで、4月に実施を予定している其の会の「九州支部情報交換会」で、素晴らしい発表をしてくれることだろう。我々も旅行後何時も行うことであるが、今回も3家族全員が集まり、映像を見ながら旅の反省会を熊本でする予定である。反省点もいくつかあったが、初めてのクルージングの旅は総じて楽しい旅であった。

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2009年2月 4日 (水)

初めてのクルージング その7

そうそう、昨夜21日の夕食について少し。添乗員が我々宛てに毎日発行するマガジーン(翌日の行事予定等についての詳細な連絡)で、21日の夕食には珍しく寿司が出るとの情報。皆さん期待してレストランに行ったのであるが、寿司は寿司でも全て巻寿司でありました。握り寿司を期待していた人には、がっくり。そろそろ日本食が喰いたいと思っていた人が多かったでしょうから。日本人調理師を見なかったので、多分外人の調理だろう。

22日朝も波静かな日和でした。8時起床。5歳の孫へひらかなだけのハガキをフロントで投函依頼した後、3家族で朝食。いよいよゆっくり出来るのは本日1日、3家族揃って各所で記念撮影すべく船内をうろうろ。

卓球に興じる夫人達。

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外国人の子供と。

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広く長いデッキを背景にツーショット

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その後、ジムで25分ランニング、サウナで汗を流した後、明日の下船に備え荷作りを始める。土産物に備え別に大きなバックを持ってきていたので、荷物の個数は増えた。加え、持参した靴、サンダル2足も多すぎたようだ。今回はどうも「正装」に拘りすぎて、服に合わせた靴が何時もの観光旅行に比べ余計だった。

3時頃6階のツアーデスク前に集められ、明日の下船についての説明を受ける。預かってもらっていたパスポートなども返却された。

ゆっくり寛ぎたいと思っても、以上のような用事でなかなかゆっくり出来ない。今日までの日程を振り返ると、クルーズが持つ本来のスローライフには、なんとなく程遠いように思われる。今回は観光が多すぎたようだ。明日もマレーシアのジョホールバル観光が控えている。

5階中央の少し奥、売店前にワゴンセールが行われているとの情報に家内と出かけた。消費税無しの商品が50%オフで売られ、時計、バンドも10ドルくらいで売られている。これだけ安ければ是非と言う気になる。この船名が印刷されたTシャツやパーカーなどは二度と買えない、えい、思い切れと無駄とは思いつつ又買ってしまった。かなりの人が日本人も含めワゴンを取り囲み、テレビで見るデパート、スーパーの安売り光景と同じような賑わいを見せていた。

ようやく一段落、家内と海でも眺めようと9階デッキへ。アイスクリームを舐めながら、ソーダ水を飲みながら、健康で今回のクルーズが出来た幸せを語りながら、暫し穏やかな海を眺め続けた。

暫し、ゆっくりした時間を。

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いよいよ、最後のディナーの時間である。前夜部屋へチップをいれる封筒が4枚配られた。其のうち3枚(My waiter, Assistant waiter, Head waiter用)に、これも同時に配られたチップバウチャーなる現金に替わる証券みたいな印刷物をいれて、お世話してくれた3人のウェイターに手渡した。旅行案内書によれば、チップは旅行代金に含まれており、額は1人1泊9.75米ドルとのこと。2人、4泊では78ドルとなる。僕には高いか、安いか解らないが、それが彼らの励みになれば嬉しいことである。もう一つの封筒はキャビンの清掃をしてくれる、キャビンスチュワードに渡すことになっていて、既に部屋に置いている。彼には別にお願い事をしたので、気持ちだけ米ドルを加えた。本日のディナーが何時ものディナーと違うところは、日本の民謡がバイオリンで数曲演奏された後、ダイニングルームのスタッフ全員が中央のデッキ迄行進し集合する。挨拶と幹部の紹介があり、挨拶は英語、日本語、中国語で行われた。その後全員でオーソレミオの合唱が行われ、フニクリフニクラにあわせ退出した。非常に和やかな演出であり、終えて通路を帰ってくる一人一人の顔がにこやかで、迎える我々も大きな拍手で応えた。

乗船最後のディナー。

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レストランスタッフ総出の演出(中央部)

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一抹の寂しさを感じながら、例の好感の持てる中国人ウエイターと、もう一度会えれば嬉しいねとの挨拶を交わしたあとレストランを出た。今夜も多くのショウが計画されていたが、明日は早い起床だし、荷作りを確実に終わらせ11時までにキャビンの外に出さなければならないので、5階で少しの買い物をした後、僕ら夫婦は部屋に帰った。

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2009年2月 3日 (火)

初めてのクルージング その6

1月21日(水)、この日だけはモーニングコールなしである。ゆっくり寝れたようであるが、やはり日常より早く目覚めた。天候はクルージング中、快晴の天気は無かったが、ほとんど毎日晴れ時々曇りの天候が続いていた。今日は風が強く吹いているので、暑さを感じない。本日も9階のビュッフェレストランで朝食を採った後、折角水着やめがね、帽子を持ってきたので、15メーター程度の短いプールであるが、泳いでみようかと思いプールへ行った。が、思いのほかの強風である。治りかけた風邪をぶり返したら大変だと思い、止めることにした。その代わり、旅行以来出来ずにいるランニングをするべく、ジムに行きランニングマシーンで約25分間、時速8キロで走った。結構体は軽やかで、何時もの如くびっしょり汗を掻き、終わって直ぐサウナ室に飛び込んだ。

僕がジムで走っている間、家内や友人夫婦は他の希望者と共に添乗員に連れられ、船内ツアーに出かけていた。それは船内の施設を周り、利用方法等の説明を受けるものであり、既に僕は主な施設を周っていたので参加しなかった。

SOLARIUM

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スポーツジム

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上の写真は船内設備のうちの二葉であるが、他のいくつか、例えばメインプールやパットゴルフ場、ロッククライミングの画像は、先日掲載しているので割愛する。

旅行では、バスに添乗員や現地ガイドに加え、写真を売るためのカメラマンが乗っていることが多い。観光地でパチパチ写真を撮り、数枚を1セットにして買わせるのである。それも結構な値段で、大体1枚700円~1,000円位である。しかし現在は殆どの人がデジカメを持っているので、自分で撮影し高額の写真は買わない人が多い。それでもやはりプロが撮った写真なので、確かに上手い。シャッターチャンスは逃さない。折角撮ってくれたのだからと、つい1,2枚程度は買ってしまう。船内でも、正装を強いられたあの日、即ちキャプテン ウエルカムパーティーの時間には、プロ達がカップルを狙って盛んにアプローチしていた。また最初の乗船日も、いつの間にか写真を撮られていて、船内のある場所に数百枚が貼り出され、確か1枚900円の価格が付いていた。僕も結構カメラに収めたつもりだか、今になって思えばもっと撮っておけばよかった場所や物が多くある。撮った写真も殆どが人物も入れての撮影なので、なかなか公開しずらい。そんなことでブログに掲載したかった場所の写真が足りず後悔している。例えばカジノ、ビュッフェレストラン、フロントパーサーデスク、売店等々。

午後1時頃(現地時間、日本との時差はマイナス2時間)タイのプーケットへ入港した。その頃になると、本船に釣ってある100人乗り程度の小型船(テンダーボートと呼ぶらしい)が海上に下ろされる。沖合い1キロくらいに停泊した本船から、そのテンダーボートに乗り移りパトンビーチに向かう。この船上から初めてレジェンド・オブ・ザ・シーズの全景を見ることが出来たのである。

パトンビーチから見たレジェンド・オブ・ザ・シーズ(手前はパトンビーチのパラソル)

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パトンビーチ

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僕はいまだタイ国でのロングステイの夢を捨てきれないでいる。プーケットには行ったことが無く、人様から聞く島の情報に胸を躍らせ、ここを訪れることが今回の旅で一番の楽しみであった。テンダーボートから見たパトンビーチの壮大さには、驚きの声を上げた。日本で有名な桂浜や鹿児島の磯浜など、あまりに短く比較できない。当然日本にも長く広いビーチもあるだろうが、僕が知っているところとの比較である。延々長く続く砂浜、ビーチパラソルの数、それにもましてそこで遊ぶ人の数。聞きしに勝る光景に映写機を回し続けた。残念なるかな今回は其のビーチを歩くのでもなく、それに続く街中を散策するのでも無く、数分間砂浜横の道路を歩き、バスで島最南端のプロンテープ岬へ向かった。その間にもいくつかの有名なビーチを通過し、無数のパラソルを目にしたが、それほどまでにこの島には人が集まるのであろうか。

目的地に着いたが、僕はプーケットの名前が付いたTシャツが欲しかったので、駐車場近くの土産品店に立ち寄った。数枚のTシャツを買い、ガイドを追いかけたが肝心の説明が終わっており、多くはカメラ撮影等に余念無かった。説明書によるとその岬は周囲のビーチや島々を一望できるビューポイントとして有名らしく、特にサンセットの美しさは評判らしい。島国の日本においてもサンセットの美しいところは沢山あり、実際自分もいくつか見ているので、特段その夕日を見たいという気持ちにはならなかった。どこでも見られる平凡な光景の、掲載するに値しない下手な写真であるが、ほかに撮っていなかったのでそれを掲載する。

プロンテープ岬(プーケット島最南端)

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岬を見た後チャロン寺に立ち寄ることになった。タイ国ではバンコク、アユタヤ、特にチェンマイにおいては多くの寺を見学しているという気持ちがあって、なんとなくバスを降りる面倒もあり、この寺には僕一人がお参りしなかった。車中で所在無く、10バーツ(約26~27円か)で買ったペットボトル入り水で喉を潤しながら、外の風景を眺めていた。

この島での主な作物は天然ゴム、ココナッツ、カシューナッツ、パイン等で、海老養殖、真珠養殖も行われているらしい。我々は最後に、カシューナッツ工場を訪れ、味見用のサンプルを食べ、その美味さに、僕は持っていたバーツを全て使い土産用にナッツ類を買い込んだ。パトンビーチの両替店で、素人判断ながらバーツはこれが底だろうと判断して円をバーツに両替しようと思ったが、本年中か来年初めにチェンマイ行きを計画してはいるものの、突発的事態発生で行けなくなることも考えられるので、とうとう両替しなかった。

タイ式マッサージが確か2時間、200バーツ位で出来ると言う情報があった。最終のテンダーボートはパトンビーチを21時15分なので、十分時間はある。友人達は乗り気であったが、確かに安い。しかしそれがビーチの簡易小屋の中で、人から見える場所で、しかもエアコンも無いところで受けることを聞き、止めようということになった。只、後で聞いたところでは、皆がしり込みしたので、添乗員が別の良い部屋で出来る所を捜してくれたそうである。このマッサージは実に気持ち良い。初めて受けたのはアユタヤで、2時間4,000円であったが、チェンマイでは最初訪れた2006年が2時間300バーツ(当時900円)にチップ50バーツ(150円)で、翌年も同じ300バーツであったが、1バーツが3.6円ほどになっていたため、実質1,100円程度であったろうか。悲しいことに、限られた時間内に多くを経験したいと言う気持ちとは裏腹に、体が休息を要求する。何でも早く始め早く終えて、事に当たって慌てたくないと言う気持ちになって行く。老化の現われだろうか。そんな気持ちにも押され、誰からとも無く「早く帰ろうか」と言いはじめ、明るい時間にボートで本船に帰ったのである。

友人の一人とサウナへ行こうかとの話になり、一足早く一人でサウナ部屋へ向かった。いわゆる乾式と湿式があり、僕の最適温度は92,93度である。これは日本で毎日通うジムのサウナの温度が其の温度なので、体がそれに慣らされたためだろう。ところが乾式に入ったら、温度が低い。慌てて湿式のほうへ駆け込んだら、これが実に気持ちよい。日本ではこの湿式サウナはあまり多くない。じわじわ、汗が噴出してきて後から入ってきた友人と暫くこの湿式サウナを楽しんだ。

ついでにこのサウナについて書いておく。翌日も、一人サウナ室へ行った。今回は先客があり2,3人の客が乾式の方に入っていた。僕は当然裸で湿式サウナに入っていたら、パンツにバスタオルを巻いた、明らかにインド人とわかる若い男が何も言わず入ってきた。僕はとっさに「ハロー」と挨拶したが、先方は挨拶を返さない。僕はそれ以上何も言わず、と言っても黙っているほうが気が楽であるので、体に付いた水滴をペチャペチャ手で落としながら良い気持ちになっていた。ところが彼は僕のほうをチラチラ見る。ひょっとすると僕が裸でいるのが異様に映ったのかもしれない。多分日本人なら僕を含め、サウナ風呂には裸で入るのは常識である。(ジムでは男女同室なので水泳パンツであるが)僕は「バカな奴だ、サウナの良さは裸で感じるものだ、なんでパンツをはいて穿いているのだ」と思っているので、裸が恥かしいなど考えもしない。暫く無言でいたが、「ひょっとして国際的にはマナーとして、パンツを穿くのではなかろうか」という思いが頭をよぎったので、出ることにしてシャワーを浴びて着替えに掛った。そうしているうちに、そのインド人も着替え始めた。またまた驚いたことに、誰からも見られることもないのに彼はバスタオルを腰に巻き、女性がするように、タオルで隠しながらパンツを脱ぎ始めた。僕はちらちら不思議なものを見るように「よほど自信が無いのか」などと、笑いを堪えながらサウナ室を後にした。僕には解らないが、宗教的に男でも人前では性器を見せてはいけないとの教えがあるのだろうか。面白い経験をしたサウナであった。

プーケットから船に戻った夜は、3家族全員で、デッキに集まり焼酎でも飲もうかということで話がまとまり、持ってきた焼酎の水割りを楽しんだ後僕を除いて、イベント会場へと繰り出した。何故僕が行かなかったのか、実は皆に断らず部屋にカメラを取りに行ったのである。10分くらいで戻ってきたがそこに彼等はいなかった。船内のイベント会場を、かなり捜したが彼等を捜せなかった。結局9階デッキで一人、軽食と飲み物で暫くですごした後、自分の部屋でふて腐れて寝ていたら、家内が帰ってきた。皆は僕が疲れて寝るために席を離れたのだろうと思ったらしい。たった一言言わなかったばかりに、皆と行動を一緒に取れなかった。

船は夜10時頃プーケットを離れ、シンガポールへ向かっていた。相変わらず波も静かで船は全く揺れを感じさせなかった。明日は一日中クルーズである。

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2009年1月31日 (土)

初めてのクルージング その5

明けて1月20日、家では8時過ぎでないと起床しないのに、やはり緊張感があるのだろうか6時には二人とも目覚めた。迷惑ではと思ったが友人達に電話したら、彼らも既に起きていた。7時には9階のバイキングレストランは開くので、そこで会おうということになり船内エレベーターで9階に上がった。未だ夜は明けておらず、南国なのに涼しい。既に多くの乗客が好みの料理を選んでおり、ざわついた雰囲気があった。日本では必ずご飯に味噌汁、納豆が定番なのに、ここには白米が無い。おかゆはあるらしいが僕は普通も食べない。味噌汁、納豆、漬物、海苔も無い。兎に角、僕は腹を満たせば良い方だから、面倒くさくないパンとバター、コーヒー、果物を取って、薄暗いテーブルへ向かった。理由はわからないが船首方向のテーブルは点灯してなく、薄暗い場所で食事する事になる。誰もクレームを付けないところを見ると、それなりに納得しているのだろうか。僕はやはり明るいところで食べたい。前日書いたように僕はあまり料理に興味ない。従って沢山の各国料理が並んでいても、それを見回ることもせず、唯一タイのチェンマイで毎日食べた、大豆と思しき豆をケチャップで煮た物が気に入っていたので、それに似た料理を乗船中は毎日食べた。そんなことでどんな料理があったのか、殆ど思い出せない。レストランの外に出ると、デッキで水泳や日光浴を楽しむ人達のために、いわゆる売店が作られ、各種飲用水、ソフトクリーム等が勝手に飲んだり、食べたり出来るようになっていた。

明るくなっていくレストランの中から、ポートクランへ入港していく船の様子を見ることが出来た。多分8時前には接岸終了したように記憶している。ここでも見事な接岸であった。下船手続きを終えた後、マレーシアのポートクランへ上陸した。大型バスに32名が乗り込み、北上してきた船とは反対に南下してマラッカへ向かうのである。

旅行代理店を通さない個人旅行は別として、代理店を通したツアーと呼ばれる旅行では今まで、殆ど1社だけを利用してきた。奇しくも友人2人とも僕と同じ代理店に御願いしているとのことで、今回も同じ代理店を通した。そして過去においても、引率する添乗員には恵まれていた。添乗員の資格として英語力は万全だろうし、その他何ケ国語は離せるだろう。一番大事なのはテキパキした行動力、指導力が問われることである。今回は未だ若い女性であるが、おじいさん、おばあさんにちかい年齢の人達を引率するには、大変な忍耐と努力を要するであろうが、終始我々をリードしてくれ、楽しい旅行を演出してくれた。

それにつけても、現地ガイドの日本語の上手さである。僕は大抵のガイドに質問する。「どこで日本語を学んだか」を。答えはいろいろ。其の中で「独学で学んだ」と言う人が結構多いのには驚く。難しいとされる日本語をほぼ完全に話す、その努力は並大抵のものではないはずだ。反対に日本人の英語力の無さ。このことについては後日述べたいと思う。

冷房がガンガン効くバスに乗って、高速道路を南下する。冷房の調整が旨く出来ないとのことで、薄手のウインドブレーカーをはおり150キロ近く南下した。日本のように立派なサービスエリアは無く、途中トイレだけのパーキンエリアで休憩しながら約2時間強かけて、目指すマラッカへ到着した。125ccのスクーターも高速を飛ばしていた。途中印象に残ったのは、道路沿いに植わった長く、長く続く油やしの森。初めて見る光景であった。

MALACCA(MELAKA),マラッカはマレーシア発祥の地ともいえる街で1,396年にスマトラ王により発見され、中国やインド、アラビア、ヨーロッパの人々の東西貿易の中継港として栄えたが、16世紀以降はポルトガル、オランダ、イギリスに支配されたこともあり、街にはさまざまな文化の建造物が残っている。以上は旅行代理店から貰った冊子に掲載されている説明文である。

僕はこの地で、毎回の旅行でよくやる失敗を、またやってしまった。旅行を記録して、後日その旅行を振り楽しむべく、随分前の旅行から記録の道具として、カメラ(現在はデジカメ)に8ミリビデオ撮影機(フィルム式は、二重取りの苦い経験から現在はHDD式に買い換えた)とさらにガイドの説明を録音すべく、小型のボイストレックと呼ぶ録音器3つを常時持ち歩いている。録音機は殆ど車中しか使わないが、あとの2つはかなりの時間、行った所全てで撮影する。今回も対象物の撮影に加え、記念のために家内や、友人夫妻を撮影するからこれに気を取られ、折角のガイドの説明を聞き逃すのである。マラッカは初めての訪問地であるから、撮影より説明を聞くべきだったのに、またしても同じ過ちを犯してしまった。

世界遺産マラッカのキリスト教会やオランダ広場などの説明は、教会前での記念撮影に気を取られ、十分な説明を聞けず悔いが残った。セントポール教会跡やサンチャゴ砦などは、ガイドに追いついていたので、ある程度の説明は聞くことが出来たが。

歴史博物館の通路にある、支配した国の国旗(奥に日本の国旗がある)

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マラッカ市内を。

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サンチャゴ砦(1511年、ポルトガル軍がオランダ軍の攻撃から守るために建てた砦跡)

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マラッカ市内で。

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昼頃には見学を終えて昼食会場に着いていたから、見学時間は多分2時間も無かったようだ。昼食はニョニャ料理と呼ばれる、中国料理とマレーシア料理が融合して出来た、素人の我々から見ると中国料理にしか見えないものであったが、美味しかった。それほどスパイシーでなく日本人にも良く合うといわれるらしい。その後土産品店で買い物の時間を取り、両替したリンギットでは足りず、日本円で土産の「ココナッツクッキー」等を買ってバスへ。ここでも若い売り子の上手い日本語に驚いた。

帰りも約2時間強でポートクランへ。バス車中から見た、この国の一般道路の汚れには驚かされた。間断なく道路の端にはビニールの袋や切れ端、紙等が捨てられていて、お隣のシンガポールとは大違い。往復300キロの行程に、うんざりしながら面倒な乗船手続きを終えて我が部屋へ。

乗船通路(我々の船は前方クルーザーのうしろに見える。クルーザーの3倍くらいはありそうである)

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夕食は昨夜と同じ頃から、始まった。昨日と違うところは、夕食後引き続いて場所を変え、キャプテン ウエルカムパーティーが行われることである。このことで、出発前から頭を悩ませていた。それは着用する服についてであり、男女ともどの程度の正装にするのかが判らなかった。ただ、友人の一人が、以前アメリカでクルージングを経験していたことから、彼の意見が十分参考になった。結論から言うと「背広にネクタイ」までは必要ないということで、僕は夏のブレザーに半袖シャツを着ることにした。この日この時間だけはカジュアルからフォーマルへ変えなければならなかった。

さすがに女性は少し違っていた。と言うのは、幾人かがビックリするような素晴らしいドレスに身を包んで現れたことであった。正直あまり若い人はいないのだから、ドッキリするような、男の視線を集めるような人がいなかったのは、家内には救いであったろう。初めての経験なので、期待を持って5階のアンカーズ ウエイ ラウンジに入ったが、少々期待はずれの催しであった。船長はじめ、幹部の紹介と船長の歓迎挨拶は、乗組員の中の日本人女性による通訳があり、日本人として鼻が高かった。確か、通訳は日本語のみであったと記憶する。その後、ダンス曲が流れ、自信あるカップル数組が、前方真ん中でワルツ、タンゴ、ルンバ、ジルバ、ブルースを踊り始めた。僕達夫婦は50年近く踊っていないし、ワルツ、タンゴは正式に習っていない。映画とダンス以外に遊びが無かった昭和35年頃、学生寮で先輩達から教わり、その後街のダンスホールでブルースとジルバを中心に踊っていた時代以来である。とうとう壁の花ならぬソファーの上でワインを飲みながら座り続けていた家内を誘う自信も無く、40分程度のパーティーは終了した。それでも僕らの仲間の夫婦1組は、ここ2年近く夫婦で正式なダンスを習っており、当日夜のTVの船内向け放送で、優雅に踊る姿を映し出していた。わが町にダンスサークルがあれば、今からでも習おうか等と、冗談とも本気ともつかぬことを言いながら、次のショー会場へ急いだ。

船内では毎日、あちこちの会場で色々なショーが行われており、どれを見ても無料らしいが、僕等は部屋の中が一番くつろげる場所なので、ついついわが城へ帰っていくのである。因みにこの日のイベントは、上述のキャプテンウエルカムパーティーのあと、8時45分からダンサーと歌手、オーケストラによるショー、10時からダンスミュージック鑑賞、11時半から70年代のディスコタイム等々が行われた。

キャプテン ウエルカムパーティで踊る人達

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既に、船は5時過ぎにはタイのプーケットに向け出港しており、予定では明日午後1時頃の入港なので、明朝はゆっくり朝寝が出来ることになっている。

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2009年1月30日 (金)

初めてのクルージング その4

ようやく自分の部屋に落ち着いて、ゆっくりできるかと思ったら各地から来ている日本人を対象にして、日本人コーディネーターによる日本語説明会をするということで、ホールヘ集められた。100名くらいの日本人が、あまり上手でない説明を聞くことになり、疲れてもう解ってるよという気持ちになったが、後で恥を掻きたくないので船内での注意事項等を聞くことにした。これで終わりかと思いきや、次に避難訓練が待っていた。

部屋にある救命胴衣を装着して、指定された時間に指定された避難場所である4階のデッキに急いだ。この間、全ての船内施設は避難訓練終了まで一時営業停止になるらしい。多くの人達がそれぞれ救命胴衣をつけ集まってきたが、人命に関わる訓練なのにすべて言葉は英語のみでなされた。担当者が大声で説明するが、英語圏以外の人には理解できるはずもない。また、乗客もこんな大型船が沈むはずはないと思っているし、万一沈没したり、火災になっても救命ボートで逃げ出せると思っているのか、殆ど上の空であった。てっきり、日本語、中国語などでの説明もなされると思っていたので、これには驚いた。救命胴衣の付け方だけは解ったが、そのほか何も理解しないまま部屋に帰った。

部屋の中でつけた救命胴衣

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キャビンが変更になったため、僕らのスーツケース2つは未だ届いていない。特段困ることも無いので待つことにした。いよいよ17時丁度にポートクランに向け出港である。多分他の人達は、届けられた荷物を整理している頃であろう。僕は出港時の大型船の離岸技術を見たかったので、家内と4階デッキへ出てその離岸状況を観察した。デッキには殆ど人は出ていなかった。正確には5時5分に離岸開始した。このときは未だ汽笛の合図は鳴らしておらず、タグボートが懸命に船尾を押し続け、方向を定めた後出港の合図と思われる汽笛を鳴らした。この間、我が友人達はスーツケースを整理していたのであろう。甲板に出てこなかった。

出港時、船から見たセントーサ島へのゴンドラ

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シンガポール港を離れる船(レジェンド・オブ・ザ・シーズ)

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シンガポール港沖に停泊中の汽船

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僕と家内は部屋に帰らないまま、17時45分にデッキ4のメインダイニングへ行った。ここはその後、乗船中の夕食会場となるところである。朝食のバイキング会場と違い、少々畏まった雰囲気を持つ会場で、僕はあまり好きな場所ではない。ところが彼等、彼女等ウエイターが、がらりと雰囲気を変えてくれた。飛びぬけて明るい黒人ウエイターがにこやかに座を盛り上げてくれるのである。加え、中国人のアシスタントウエイターは常に笑みを浮かべ、「人は見た目が9割」と言われるとおり、稀に見る人柄の良さが顔に出ている男子であった。聞いてみると本職はオペラ歌手で、この船には1年半前から乗船しているらしい。最後の夜のお別れ食事で、その歌を披露する予定だったらしいが、残念ながら何らかの都合で歌うことをしなかった。僕の拙い英語に「あなたは上手く英語を話す」とお世辞を言ってくれたからではないが、本心から「また会えたら嬉しいね」と言って、最後の夜の夕食後別れた。何時までも印象に残る優しい顔付きの男性であった。

僕は食べることにはあまり興味がなく、麺類、魚類にチーズが好きなくらいで、何を食べたいと思うことはあまり無い。従って食事が楽しみだと思うこともあまり無いので、家内との口論は僕の食の少なさを巡ってが原因である。そんなだから、船の豪華なメニューもビールさえ飲めれば何でも構わない。そのビールが結構高価なのである。キリンの一番絞りの缶入りが6ドル。2本飲めば1,100円弱。旅先でケチる訳ではないがどうも割高感があり、その程度で止めて、あとは部屋で別の酒を飲めば良い。建前上、持ち込み禁止であったが、焼酎の瓶入りを日本から持ってきていたので、その夜は友人夫婦と焼酎を飲むことになった。

船は殆ど揺れを感じさせず、時折キャビンの外で波の音が当たる音を聞きながら11時頃(日本時間12時頃)には、眠りについた。気になっていた二人のスーツケースは夕食会場から帰ると、きちんと室内に並べてあった。翌朝は8時頃ポートクランへ入港予定である。

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2009年1月29日 (木)

初めてのクルージング その3

無事乗船したのであるが、その前にチョッとしたトラブルで慌てる事態が出来した。乗船の際に添乗員から、割り当てられたキャビン番号を船会社のデスクへ示すように言われたので、その番号を伝えたのであるが、デスクの女性(シンガポール人)は「あなた達はそのキャビンではない、もう1階上のキャビンだ」と言うのである。まあ、その程度の英語は何とか理解できたので、何故だと聞いたが早口での返答が理解できない。結局、添乗員のお出ましを願い事は収まった。僕らの部屋が、トイレかシャワーの水漏れか何かのトラブルで使えないと言うのである。そこで1ランク上の3階の窓のついたキャビンが割り当てられたらしい。実は申し込んだ我々のクラスは、2階の窓のついてない通路よりのキャビンで、ワンランク上の3階キャビンより何万円か安いクラスであった。たまたまのアクシデントで、幸運な籤を引き当てたらしいが、どうも僕等だけ良い目にあったみたいで、心苦しかった。

テロは航空機だけを狙うものではない。船も対象にされるわけで、乗船時は結構厳しいチェックがなされた。航空機と同じく手荷物検査も身体検査も厳重に行われた。それも下船して観光を終えて、再度乗船するたびに行われるので実に煩わしい。安全を確保するためには仕方ないことかもしれないが。

ここで忘れないうちにクルーザーの仕様について説明を加える。

船名: レジェンド・オブ・ザ・シーズ、 総トン数: 70,000トン、 乗客定員 2,076人

乗組員数:723人、 全長:264m、 全幅:32m、 喫水:7.4m、 巡航速度:24ノット

期間を通じて全くと言ってよいほど海が荒れず、揺れは殆ど感じなかった。強がりで言っているのではないが、正直なところ、ある程度揺れを感じないと、船に乗っているという実感が沸かなかった。むしろ福岡からシンガポールまでの航空機の揺れが、もっと激しかった。

プロムナードデッキは4階でメインダイニングやカジノやシアタースナックバー等があり、メインデッキは5階でメインダイニング、フロントパーサーデスク、ショウ会場等がある。サンデッキは9階でプール、ジャグジー、サウナ、ジム、美容室、マッサージ、ビュッフェレストラン等があり、10階がコンパスデッキでミニゴルフ(パットゴルフ)やロッククライミング、ジョギングコース等がある。11階がバイキングクラウンデッキと呼ばれ、ディスコがあり深夜盛り上がるそうである。 

確実な数字ではないが、今回のクルーズの乗客は約1,400名程度で、その出身国は約60カ国程度らしい。僕には白人、黒人、日本人、中国人、インド人程度の区別しか判らなかったが、声高に喋っているのは中国人グループで、その点からも凡そ察しがついた。

船首方向から船尾へ続く3階キャビン

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4階、5階のメインダイニング

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メインプール(10階から撮影)

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スポーツジム

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ロッククライミング

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ミニゴルフ(パットゴルフ)

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乗船の際「シーパスカード」と呼ばれるクレジットカード大のプラスチック製のカードを受け取る。これは船内での身分証明書になり、部屋の鍵、船内でのクレジットカード、乗船、下船の身分証明書という役割を果たすものである。このカードには船の名前、航海日、使用者の名前、緊急避難場所等も印刷されている。

船内通貨はアメリカドルであるが、日本円から各現地通貨(シンガポールドル、タイバーツ、マレーシアリンギット等)にも両替可能だが、アメリカドルに一度換算してから再度現地通貨に換算するので、両替レートは下がることになる。僕は日本で円をアメリカドルに両替していたが、シンガポールドルはバス内でガイドから両替してもらい、リンギッドだけは持参したアメリカドルを船内で両替した。タイバーツは一昨年、チェンマイに行った際約2,500バーツほど持ち帰っていたのでそれを利用した。

参考のために1月21日の船内新聞に載っていた為替レートを示す。

アメリカドル:89.96円(僕は1月16日に鹿児島の銀行で手数料込み93円で両替した)

シンガポールドル:59.86円

タイバーツ:2.57円(一昨年は約3.6円、一昨々年は約3.0円であったと記憶する)

リンギット:24.91円

チップはどこの国に行っても心悩ますものである。ここではレストランのヘッドウェイター、ウェイター、アシスタントウェイター3人と、客室担当のキャビンスチュワードに対してのチップとなっており、下船前日部屋に届けられたチップバウチャーをそれぞれの封筒に入れ、直接担当者に渡す仕組みになっている。朝のバイキングと違い、メインダイニングでの食事においては、乗船中を通して我々が食事するテーブルは特定されていて、3人のウェイター達も我々のテーブルを担当することになっている。そのチップはすべて旅行代金に含まれており、船内で現金での支払いは無い。ただ、ルームサービス等で客室に何かを届けてくれた場合は、1~2アメリカドルでチップを払えば良いとのことであった。

船内の食事は全てクルーズ料金に含まれているので、何を食べても、何時食べても全て無料であった。但し、アルコール類は全て有料であり、キリンの一番搾り缶入りビールが1本6ドルには恐れ入った。

テレビは日本語放送が無く、米国オバマ大統領の就任式だけは何としても見たかったが、それが心残りであった。インターネットは24時間利用できるとのことであったが、1時間が25ドルと高価なため、多分殆どの人が利用しなかったのではと思われる。絵葉書を神戸に住む孫宛てに、船内から2回送ってもらったが、同じエアメールでも1回目は1ドル60セント、2回目は90セントであった。何故切手代が違うのか判らないが、それを聞くこともしなかった。寄港してからの投函であろうから、通常よりかなりの時間を要して届くはずなので、孫が受け取る時は既に僕は自宅に帰り着いていることだろう。

以上、船についての概要や船内での約束事、サービスその他について述べた。次号から船内での生活について述べる。

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2009年1月28日 (水)

初めてのクルージング その2

二日目の記録を始める前に海外旅行保険について言及する。僕が入会している、南国で暮らしたい、あるいは既に暮らしている方々が加入している特定非営利活動法人では、季刊誌を通じて色々な情報を提供してくれる。その中で海外旅行保険についても紙面を割いて、丁寧な解説をしてくれている。今まで半信半疑であった、クレジットカードに付帯している旅行保険が十分に機能することを知り、今まで二社だけ加入していたクレジット会社を三社に増やした。ゴールドカードはさらに有利だとの情報で、申し込んだが断られた。理由は絶対教えてくれないが、多分高齢者で無職であることがその理由であろう。三社のうち二社については家内も申し込み、入手した。これら保険で担保される内容は十分であると思ったが、旅行先で一番心配な怪我や急病について、東南アジアではその額で十分であろうが、米国、ヨーロッパでは不安を感じるので名案がないか考えた。

普通、旅行保険は障害、疾病、賠償、携行品損害、救援者費用などがセットされて販売される。そこで一番心配な、障害、疾病のみの保険は販売しないのか、代理店に確認の電話を入れた。当初、そんな販売はしたことが無いと言っていた担当者も、僕の押しで「確認してみます」と一旦電話を切り、後刻「ありました」との返事。素人の思いつきでも訊ねてみるべきである。

障害、疾病のみ担保される保険料は高額ではないので、三年前から利用している。事実、友人の話ではイタリアかフランスで、怪我のために数千万の治療費が請求された旅行客がいたそうである。僕は旅行中その保険証とともに、カード会社の旅行保険用パンフをコピーして、いざと言うときに示し、活用出来るようにバッグに入れている。

さて、保険の話が長くなったが、2日目は午後2時頃までシンガポールの市内観光である。まず、熱帯植物園のなかの蘭園を見学する。ここは2年前も訪れており、さすがに2年間では記憶は失われていない。そのときにも綺麗な蘭をデジカメに収めたが、又今回も同じことをすることになる。

綺麗な蘭を!どうぞ

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約1時間の蘭園見学の後は、これも観光コースになっていると思われる、一昨年も訪れたマウントフェーバーへ。小高い山の上からマラッカ海峡やセントーサ島を望み、皆さん映像に収めていた。ここには37メートルのマーライオンタワーがあるが、島で工事が行われていたために、見つけるのに苦労していた。

マウントフェーバーからセントーサ島の一部を

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40分程度の短い見学の後、宝石店や枕を中心に販売している健康グッズ店を廻る。新開発された、天然ゴムから作った枕に少しの興味を持ったが、一つ一万数千円であることを聞いたとたん興醒めして外に出た。昼食は四川料理であったが、料理の美味さより高価なアルコールにビックリ。缶ビール1本500円はあまりにも高すぎる。概して東南アジアでは、他の商品に比べアルコールは安くないと感じた。

食事後いよいよ「レジェンド・オブ・ザ・シーズ」に乗船する事になる。あまりの大きさゆえに全体像が判らぬまま、面倒な手続きと厳重なチェックを受けた後に乗り込んだ。手続中に少しのトラブルがあったがそれは後ほど述べることにする。

レジェンド・オブ・ザ・シーズ   ( プーケット島パトンビーチから撮影)

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2009年1月27日 (火)

初めてのクルージング その1

南の国で生活したいと言う夢は未だ消え去っていないが、一度でよいから大型船でのんびり海を眺めたいなという願いも持っていた。旅好きな友人二人と意見一致、旅行社から送られてくる冊子に載っていたクルーズの旅に早速申し込み、早期申し込みの特典である旅行代金の割引を受けることも出来た。煩わしい入出国カードの記入も代行してくれたのは有難かったが、燃油サーチャージがこの急激なガソリン値下げにもかかわらず、高々1,000円しか下がらなかったことには合点が行かなかった。しかしスーツケースを一人1個、福岡空港まで無料で集荷、配達してくれるサービスに免じて、これ以上の御願いはしなかった。今回はこの旅行記を数回に分け、詳細を記録に留めたい。

友人二人とは、ともに何度か国内、海外旅行をそれぞれの連れ合いとともに経験した仲である。今回も今まで同様夫婦での旅となった。寒い日本から暑いシンガポール、マレーシアやタイに行くのであるから、服装も面倒である。加え船内ではカジュアルで構わない日と、フォーマルな服装が望ましいとされる日があり、それも厄介だ。鹿児島に住む僕にとって、出発する当日福岡まで行くにはあまりにも遠すぎるので、前日から熊本の友人宅に泊めて貰うことにした。

1月18日(日)早朝5時半、夫婦3組が車で高速道を熊本から福岡へ向かった。幸い天気は悪くなく2時間弱で福岡空港へ到着。駐車代金は1泊900円で、1昨年に比べ100円のアップであったが、色々な面からバスや電車より車が便利であるようだ。

出発から帰国まで高々7日間の旅であるが、7万トンのクルージングには出発前から胸が高鳴っていた。福岡からの参加人員は32名との情報であったが、シンガポールに到着まではそのメンバーは判らなかった。

10時15分過ぎ離陸したが、この時間は何度か行ったタイ行きの時間とほぼ同じ時間である。ほぼ満席の飛行機は離陸して暫くしたらかなり揺れだした。それも長時間、かなりの揺れである。これだけの揺れは経験したことが無い。時折「うわ」との声も聞こえる。多分3時間くらいはベルト着用のサインは消えなかったようだ。確か「魔の11分」とか呼ばれ、離着陸時の時間を除けば飛行機は落ちないと言われるのでそれを信じたいが、やはり気持ちの良い訳は無い。それでも無事現地時間3時40分(日本時間4時40分)着陸した。

南の国であるから当然暑い、日本の寒さからこの暑さ。しかし汗がにじみ出るほどでもなく、翌日の計画を前倒しして1箇所だけ観光することに計画変更がなされた。その1箇所と言うのが、世界の三大がっかりツアーの一つといわれる「マーライオン」である。2年前にこの地に来て写真をパチパチ撮っているので、よく覚えていたがまさしく、何故あの像が有名なのか首を傾げる。ただ、周辺の様子が変化しており、建物がいくつか建てられていた。

こんなことで、慌しい一日が過ぎ、少々ぐったりした体でホテルへチェックイン、翌日からの船旅を想像しながら眠りについた。

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2008年11月 3日 (月)

鹿児島市のおはら祭りを見に行った。

友人から、ブログの字が少し小さくて見にくいので、大きくして欲しいとのメールを受信した。年をとったことが原因だとも記されていた。いまさらとは思ったが、ひょっとすると同じ思いの人がいるのではと考え、彼の意見を取り入れ、大きな字体に変更した。

学生時代も入れると、21年間鹿児島県で生活した計算になる。その間、鹿児島市の大きなイベントである、おはら祭りを見たことが無かった。今年は是非とも見たいと、渋滞を避けるために朝食の後始末もせずに、9時頃家内と車で出かけた。約20分くらいで鹿児島市に到着。

交通規制が掛っているため、車を鹿児島駅近くの駐車場に預け、徒歩で中心街へ向かった。踊り開始前であったが車も市電も通らない通りははっぴ姿や着物姿の踊り子に加え、見物人も多く熱気が感じられた。残念なのは、祭り初日の昨日も小雨、昨夜の前夜祭も雨であったらしい。最終日の今日も曇り日和ではあるが、偶に雨が混じるあいにくの日和。

それでも、市長の挨拶や外国人招待者の紹介、挨拶後「おごじょ太鼓」と呼ぶ、多分女子が打つのであろう太鼓で気合を入れた後、総踊りが始まった頃は一時的に日も射しかけた。

今年は8月15日に徳島の「阿波踊り」を見に行った。正直、この阿波踊りには及ばない知名度ではあるが、市はかなりの努力をして全国にアピールしようとしているらしい。それに応え、老若男女出場者は真剣に、且つ和やかに、楽しく「おはら節」「鹿児島ハンヤ節」等を踊っていた。阿波踊りほどのハデさはないが、4,5歳の子供達も楽しげに、思い思いの手つきで踊っていたのが印象に残った。

素晴らしかったのは、通行者へビニール袋とプラスチック製のごみを拾う為の火鋏みらしき物を渡して、街中の美化に協力してもらう御願いをしていることだった。僕もタバコの吸殻とかペットボトルを捜したが、素晴らしいことに、ついにそれらを発見できなかったのである。実に、見事に、美化に対する意識とマナーが完全であることの証左であろう。

踊り開始前のまつり本部席

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踊りスタート前の天文館通り付近

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「おはら節」を踊り始めたご婦人方。

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僕が通っているスポーツジムの社員と関係者

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真剣に踊る子供達

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詳しくは鹿児島市のホームページで

http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/7omatsuri/_28867.html

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2008年10月15日 (水)

写真の貼り付けを忘れていた。

慌てていたため、昨日のブログに写真の貼り付けを忘れていたので、4枚程度貼り付ける。コスモスの傍で咲いていた、赤い綺麗な花の名前をメモしなかったため正確ではないかも知れないが、確か「アメリカふよう」と書かれていたように記憶している。少し盛りを過ぎているようにも思えたが、人目を引く綺麗な花だった。近年まで草花に殆ど興味が無かったが、道の駅で買った観葉植物に興味を持って以来、安価な草花を買い集めるようになった。昔、亡くなった父が「草花を愛でる気持ちの無い人間は、心優しくない、くだらない人間だ」と言って、興味の無い僕に痛烈な言葉を投げたことを思い出す。今、父の気持ちが理解できるようになったが、これも自分が年をとったということか?

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2008年10月14日 (火)

生駒高原の秋桜は只今見ごろ。

相変わらず半袖で生活出来る南国の秋。勤務した会社が経営している霧島山中にある保養所を、友人等7名数年ぶりで訪ね、硫黄の臭いのする掛け流しの温泉と、その後の美味い酒を楽しんだ。全く物音ひとつしない夜半、悲鳴に近い鳴き声で目が覚めた。皆の話を聞いてみると、鹿だろうということであった。

翌日は宮崎県小林市の生駒高原にあるコスモス園に向かい、満開のコスモスを楽しんだ。連休に加え好天なので霧島連山の山々に登る人達の車と、登山者の多さに驚きながら鹿児島県側から、宮崎県へとノロノロと進んだ。幸い早い時間であったため、数箇所ある駐車場に滑り込めたが、それから1時間くらい後、小林市方面からこの園を目指してくる車は2キロ以上の渋滞で、多分イライラが募ったことは想像に難くない。

多分、年間この時期2,3回位しかないようなすごい人出。入園料400円と少々高いけれど、この際稼げととばかり、売り子の女性は何を言われてもニコニコ顔であった。15名で団体金額320円の割引表示を見て、見知らぬ人を誘い込み15名の急拵えの団体を作るオバサンもいて、女性のしたたかさを見た。

今にも盛りを過ぎるのではと思われるくらいに満開で、1万坪以上もあろう敷地はコスモスに加え、名も知らぬ花などが植えられており、空から眺めるため、ヘリコプターが離発着を繰り返していた。どうせ乗れるような甲斐性があるはずもないので、料金は聞かなかったが、いかにも豪勢なものである。

コスモスを「秋桜」と言い、字を宛てるようになったのは何時ごろなのか知らないが、なんとなく洒落た日本語のようにも思える。しかし、秋に咲く花は沢山あるだろうに、何故メキシコ原産のキク科の植物であるコスモスが、秋の桜として選ばれたのでしょうね。

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