日記・コラム・つぶやき

2009年11月12日 (木)

とかく安普請の家は・・・・・・

居間の一部が、そこを通るたびに異音を発し始めて既に3ヶ月以上経つ。これで2箇所目であり、1箇所目の廊下の異音は、尋ねてきた友人Kさんが、床下にもぐり短時間で修理してくれた。電気店経営の彼にとっては、朝飯前の簡単な作業であったと言う。

今回の場所は前回より広範囲にわたり、ギー、ギーと不気味な音を発する。堪らずKさんに電話を入れた。手術しなければならないほど、腰を悪くしている彼には到底頼めないので、意を決して僕がすることにした。

修理の仕方を聞いてみると、理屈的には理解できた。要するに床下に固い、例えばブロックなどを敷いて、それと床板の間に板を入れ、それを持ち上げ固定するジャッキ様(DIYショップに売っているらしい)の機器を使えば可能との事。

いずれ近いうちに実行予定である。出来るかどうかは自信が無いが、まあ、床下に潜ってみよう。

もともと家を持つ気持ちは、全く持っていなかった僕は、家賃を払い続けるより、自分のものにしておいたほうが、有利かもしれないと思い直し、深く考えもせずに、それも見せられた2軒目で決めたので、業者が驚き「本当に良いのですか」と聞き直したほどである。僕が51才の時である。

住めさえすれば良いと考えているから、各所の点検や説明など聞かず、住み始めて17年経ったが、その間10年間は転勤と、親との同居の為に、空き家のままにしていたので、正味住んだ期間は7年程である。

安普請の、しかも借家用に建てられた家らしく、狭い土地に建てているので庭など無い。それでも自分の持ち物となると、大事にしたい気持ちが沸いてくるから不思議である。借家住まいをしていた頃は、考えもしなかったことだ。

当たり前のことだが、金を掛けてない安普請の家は、自然にメッキ剥げて来て、不都合箇所が出てくる。今後も多分あちこち出て来て、その都度手入れを余儀なくされる事であろう。今となっては安物買いを後悔しているが、当時はそれが精一杯の買い物であった。25年以上も家賃を払い続けていたのだから。

利口な人達は、若い頃からマイホームを持つ。それはそれで素晴らしい生き方である。僕の娘夫婦も先ほど、高価なマンションを買った。大都会だから、その程度は普通の価格かもしれないが・・・・・。月月の支払額も僕の常識をはるかに超える。

考えてみると、マイホームの為に一生働き続けるような人生は、自分で選んだ買い物であるとは言え、どこからか何かの魔力に支配され、買わされているのではと思うことがある。皆が買うなら僕もと、横並び意識がそうさせるのかも知れない。

娘たちの場合は、亭主が65歳迄払い続けることになるらしい。何千万円を30年以上払う事など、冷静に考えると狂気の沙汰ではないのかと思う。しかもこの時代、生活の保障は何年先まであるのであろうか、そのような不安もあるはずだ。こう考えたとき、「僕に幾ばくかでも余裕があれば、娘たちに加勢出来るのになー」と思う事がある。支払う金額の大きさから、それを親バカだと、笑って済ませられる事であろうか。

僕のサラリーマン2年生のとき、2年間のローンを組んだ。その期間でさえ、不安を感じたのに、僕らは何時頃から、数十年の長期ローンに不安を感じなくなったのであろうか。そのようにして入手したマイホームも、永遠ではない。僕の家みたいに、十数年で手入れが必要になる家もあるのだ。いずれ資産価値が消滅する住宅が殆どであろう。

僕は最近、払ったローンの金利も含め住宅購入に要した金額を、好きな旅行などに使うべきであったと、短絡的に有利であると判断し、マイホ-ムを求めた行為を、少し後悔している。いまさらどうにもならないことは承知しているが、多くの人と同じ道を選んだ生き方にも、何だかつまらなさも感じる昨今である。

家の不具合から派生して、日本人の人生最大の買い物と言われる、マイホーム購入にまで思いを至し、つい言及してしまって、つまらない呟きになってしまった。

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2009年11月 1日 (日)

根付いた「ごみの分別、減量化」

当地へ引っ越して驚いたのが、ゴミの分別に厳しい事であった。週2回出す事が出来る燃えるゴミは、有料の黄色ポリ袋に入れ、氏名を書かねばならない。この程度は特別面倒なことではない。

引っ越して直ぐ、自治会から「姶良町ごみ分別辞典」なる99ページに亘る冊子が配られた。ざっと目を通したが、その余りに細かい分別に驚いた。「こりゃーたまらん」とお隣に実情を尋ねた。

「直に慣れますよ」との返事であったが、未だにこの辞典を見ないと、分別出来ないモノもある。ここまでする必要があるのか僕には判らないが、その面倒な作業をこの町の住民はやっているのである。全国の自治体の「ゴミ分別」実態を知らないので、比較が出来ない事ではあるが、実に立派な事ではある。資源の有効活用で環境保全を実現するためには、このようなリサイクル活動は絶対必要であろうから。

2年以上住んでる間に、ようやく作業に慣れてきた。紙類は「新聞紙と広告チラシ」「ダンボール」「それ以外の冊子、紙類」に大別し、指定の紙紐で十字に括る。空き缶は飲料缶と食用缶に大別、必ず洗って缶はつぶさない。ボトル缶のふたは「燃やせないごみ」として出す。ビンは色により4つに大別する。当然洗って、水を切って出す。

ペットボトルはこれも当然、洗って出す。大量に発生するのがプラスチック類である。我が家では布団圧縮袋にそれらを入れて、月1回の回収日まで保管する。傑作なのは、使い終わった食品のポリ袋を洗剤で洗い、乾かすために物干し竿に下げている風景である。ここまでやるのかと、驚いた。只でさえ狭い家の中に、大きく膨れ上がった袋が、2個、3個ほど占めるのだから、回収日が待ち遠しいと家人は言う。

てなことで、殊勝にも真面目顔してゴミについて実情を述べたが、これらの作業は殆ど家人がこなしている。立会い業務のノルマも課せられているが、僕はただ1回だけ、代理で出たことがある。与えられた仕事は、回収袋に集めた缶や瓶、ペットボトルの計量、括られた紙類の計量であった。

大忙しの立会人達

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計量して記録後保管準備

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11月からは、ごみの持ち込み時間が冬時間になり、8時になったそうだ。夏場は7時であった。40分の間に持込をしなければならないため、結構混雑する。

今朝は家人も担当であったので、8時前に出かけて行った。僕は車にゴミを乗せ、持ち込み場所へと出かけた。雨の予報であったから、早めに出そうという人が多かったのか、挨拶が飛び交う中、立会人たちが忙しそうに動き回っていた。

このゴミに関して、記録に残そうと思っていたので、ゴミを出した後カメラを持って、幾らか人出が減った時間帯の撮影をした。自治会の役員に尋ねたところ、対象軒数は約80軒であるという答えが返ってきた。

集められた袋は、山に積まれて業者を待つ。(80世帯約1か月分)

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2009年10月17日 (土)

徒然に思うこと・・・箪笥の背広、ネクタイを見ると昔が・・・・。

年金生活になり当然のこと、背広、ネクタイ、靴、シャツなど会社勤めに必要な身の回りの品物を買わなくなった。クリーニングしているのに背広に虫が食うこともあるし、そのような背広も3本洋服箪笥に掛けてある。靴は長い間履かないと底が変形し、ひび割れが生じることもあるが、まだ丈夫な通勤靴が靴箱に並んでいる。ネクタイなど、今後締める事もないのに、捨てきれずに10数本も箪笥に掛けてある。白色のお祝い用ネクタイは偶に、黒色ネクタイは今後頻繁に出番がありそうだが、それ以外のものは多分締める事はないであろう。それでも背広、靴、ネクタイなどは保管している。万一の場合を慮っての事だ。

その万一も、ここ8年殆ど起きなかった。即ち白、黒以外のネクタイを締めた記憶がないし、背広も着ることが無かったのである。いや、ひょっとすると着るべき時にもブレザーで済まし、ノーネクタイで顰蹙を買ったのかも知れない。もう、堅苦しい服装はしたくなかった。

それらを見ると、過ぎた昔を思い出すことがある。波乱のサラリーマン生活ではあった。定年の日を境に出勤しなくて良くなったが、そのときの開放感と快感は、昨日の事のように良く覚えている。帰属場所を無くした事で寂しいなど、全く考えもしなかった。束縛から解放されることがそれほどの快感だったのだ。

「終りよければ全て良し」でフィナーレを飾るつもりが、予想もしない子会社出向を境に、順風満帆と言えないまでも、問題もなく満足していた仕事から一転、矜持をズタズタに切り裂かれ、苦痛の日々を送らねばならなかった。そんなわけで未練なく会社を去った。

実を言うと、経済的に無職で暮らせる身分では無かったのであるが、1年間は自由を満喫したかった。ところが1年過ぎると、もう働く意欲が無くなった。貧乏しても、自分のスケジュールを自分で決める事の出来る幸せを、捨てる事が出来なくなっていた。

かくして、貧しいながらも誰にも束縛されない生活を楽しんできたが、近年は誕生日ごとに年を重ねる事の怖さを実感する。残された日時が気にならないと言えば嘘になる。「ここまで生きてきたか」と恥多かりし来し方を振り返る事も、ちょくちょくあるが、「生きてもあと20年以内か」と神様しか判らない寿命を勝手に決めて、その短さに慄然とする事もあるのだ。

去る8月に65歳を過ぎた人が利用できる、航空会社の割引制度を利用した。ANAの「65空割」という割引で、予約は出来ないが空港へ行き、空席があれば1万円で大阪、東京行きの航空機へ搭乗できる。条件は無料で入会出来る、マイレージクラブへの入会だけである。

JRの「ジパングクラブ」も、男性65歳・女性60歳以上の人が利用できる割引制度である。年会費3,670円を払えば、JRの運賃が30~40%引きになるサービスである。この特典は随分利用させて貰った。

このように年を重ねれば、有難い特典が沢山ある。特に70歳以上になると、もっと色々あるらしい。他人事のように聞いていたこれらのサービスを、自ら受ける年齢になるとは、僕は事実間違いなく馬齢を重ねているのだ。

好むと好まざるに関わらず、人間は年を重ね年老いていく。僕は考えないようにしているが、病が怖いし老も怖い。死はもっと怖い。昔、僕は年を取ることを、望んだ時期があった。まだ若かった時期に。

学友の訃報を聞くたびに、天命を考える機会が多くなった。色々な特典など使えなくても良いから、年取らず若くていたい。あり得るはずはないのであるが・・・。

僕は五木 寛之の本から勇気を貰う事が多い。昔「大河の一滴」、「人生の目的」「生きるヒント」「運命の足音」等を読み、感動を受けた。最近「人間の運命」を買った。読む度に心鎮めて呉れる彼が、神様に見える日がある。

取り留めない日記になったが、9,10月に高校と中学の友人二人の逝去で、少し気弱になっていて、柄に無く神妙な内容になった。でも限りある人生だ、元気を出そう!

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2009年9月27日 (日)

栗拾いに思う

このブログに度々登場する熊本県のMさんのお宅を、家人と共に今月23日にお邪魔した。目的は毎年行っている彼の栗畑での栗拾いである。理由は知らないが、今年はどうも不作らしい。雨が殆ど降らないのが理由かもしれないし、裏年と言うものがあるのなら、それなのかも知れない。

昔は、と言っても僕の子供時分は、栗はトロッートとした甘い砂糖液に包まれた食べ物で、中々手にいらない高級なイメージが強い。母がそれを使って、甘露煮を作っていたのが、強烈に印象に残っているからかもしれない。甘党の人達にとってはそれが饅頭の中に入っていたり、ぜんざいに使われたりしてどうにも堪らない味であろう。砂糖で煮なくても茹で栗として、そのまま皮を剥いて食べても実に美味しかった。希少価値から高級感のある木の実として、今でも僕の頭に刻まれている。

そのような高級感ある栗を、例年この時期になると友人等数名で彼の畑に入り込み、100坪はあるであろうその中で育った栗の木を叩き、あるいは落ちている栗を拾い、用意した長靴でイガを抑えて実を取り出す作業をしてきた。

落ちている栗

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殻付きの栗

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本日の収穫

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今年はMさんがゴルフコンペ参加のため手伝えないので、M夫人と家人と僕の3人での作業になった。畑に入りこむと、かなりの数の栗が落ちていた。残念なのはその内の多数に虫が食っていたことである。生っている栗にも僅かではあるが、同様に虫に喰われていた。携帯ラジオを聴きながら、雑談しながら作業を続けた。たまに頭を枝にぶつけたりしながら。

1時間半程度の作業であったが、結構な数の栗が収穫できた。これだけ多いと,昔思っていたような高級感が薄れてくる。それでも家人には、数名にお裾分けする皮算用をしていたようなので、適当な量であったかも知れない。イガイガを長靴で押さえ実を取り出す作業をしながら、貧しかった昔を思い出し、飽食の時代に慣れきった現在よりも、生まれて初めて食べたバナナの時のように、その美味しさに感動しながら食べた昔のほうが、ずっと幸せだったのかも知れないと感じた作業であった。

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2009年8月27日 (木)

未だ続く鳥の啄ばみ。

高校時代の親しい友人の一人T君から、ケイタイにメールが届いた。彼は僕のブログを読んでくれている一人であり、エスプリに富んだ彼の文才には、何時も舌を巻いている。

僕ら夫婦の会話をどこかで盗み聞きしたような、そして家人の心の中を見透かしたような内容に、一瞬ドッキリ。

確か前々回のブログ内容は、広大な空き地に茂る夏草と、刈り取った後の小鳥たちの啄ばみを題材にしたが、その土地こそT君が今回メールで指摘した、家人が夢に見る「宝くじに当たって、その土地の少しでも買いたい」という、件の土地なのだ。僅かな畑でも良いから、そこに家庭菜園を作りたいとの夢を、家人は長いこと持ち続けている。その夢を叶えてやることの出来ない、甲斐性なしの僕は実に情けない存在であるが、今となっては、まさにその通り、宝くじ当選だけが唯一可能性を持っているのだ。

T君のメールの一部、「実はその200坪の所有者は自分なので、君に進呈しよう」・・・(真夏の夜の夢)、その後も続く「買ったサマージャンボ宝くじは未だ見ていない」云々。欲しい土地と、それを宝くじで当てたお金で買いたい・・・・家人の願いと符合する内容である。

一度家人が友人に電話する内容を聞いたことがある、「たまに夢想するのよね、宝くじに当たってその土地を買ったあとのことを」「買えば他人の家が建つ可能性も無くなるし、だから日当たりも悪くならない」。正直な気持ちであろう。

T君には、僕らの胸のうちはどうも見え見えだったみたいだ。富裕者層と思っていたT君が、宝くじを買うことを知って、さらに親近感は増した。

以上はたまたま貰ったメールをきっかけの余談であるが、件の土地はその後全体的にはスッキリしているが、ところどころ雑草が生えだした。実に雑草の生命力には驚くばかりだ。

その後小鳥たちは毎日、今でも群れを成して飛来、盛んに土地に嘴を突っ込み虫などを啄ばんでいる。1週間は経過したのに、そんなに虫類がいるのであろうか。

啄ばむ集団に、何か一定の決まりと言うか法則みたいなのがあるのではと、家を出るたびに観察するが、判らない。

同じ大きさの鳥達が一つの群れを作って、集団で啄ばんでいることは間違いない。そして烏は鳥の仲間達からも嫌われているらしく、何時も孤立しているように見える。彼等が1羽でも2羽でも舞い降りてくると、他の鳥達は逃げる。

余り面白くもないが、デジカメで撮った鳥達をアップして、一連の自宅前の空き地に関する記事を終了する。

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2009年8月20日 (木)

夏草を刈り取ったら・・・・。

これだけの土地を持ってれば、生涯安泰だと思うほどの土地が、僕の家の前にある。多分200坪はあるだろう。すでに20年近く、地主は売り地にもせず所有し続けている。

貧乏人の僕からすれば,なんとも羨ましい話であるが、もしここが売り地になり、アパートなり一戸建てでも出来れば、うちの日当たりはそれまで。日当たりの良い、明るい日々が過ごせるのも、ここが未だ売り地にならないからである。

僕らがここに住まっている間、住宅が建たない事を願うばかりである。自主的なのか、或いは近所からのクレームがあったのかそれは判らないが、年に一回程度、特に夏草茂るこの時期に草刈が行われる。

その茂り様は確かに尋常ではない、ブロックから飛び出した蔦が、通る車に接触する。茂ってくると、そこを目がけて空き缶やペットボトルが投げ込まれる。僕の家には直接被害が無いので、そのままでも痛痒を感じないが、小さな臭い虫が発生するのには、少々閉口する。

この夏も、町のシルバー人材センターから数人の作業員が来て、その雑草を刈り始めた。多分丸々二日くらいは要したと思う。実にきれいに刈り取り、さっぱりした気分になった。

話はただそれだけである。夏草のその鬱陶しさが、暑苦しさを倍増させるのは事実のようだ。刈り取ったお陰で、我々も涼しく感じられ有難い。

刈り取ったら、すぐ鳥が群れを成して飛来、その地面に這い出したと思われる虫を啄ばみにやって来た。これこそ鳥の本能と言うか、目敏さと言うのであろうか。

不思議なことに、大きい鳥と小さい鳥は別々の場所で群れて、ちゃんと自分たちの縄張りを守っているようである。即ち棲み分けをしているのだ。

両方をデジカメで撮ったので、アップする。ただ、小さい鳥の集団は、地面の色と小鳥の色が似通っているので、識別が難しいかもしれない。

茂りに茂った夏草

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小さな鳥達の集団

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大きな鳥達の集団

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2009年8月12日 (水)

二人目の孫が産まれたぞー!

予定より1日早く、娘に2番目の子供、すなわち僕にとっては2番目の孫が産まれた。家人はこれに備えるために7日から神戸へ行っている。

今朝6時頃、家人から電話があったが、時間も時間であるし、低い声での電話に胸の動悸を抑えることが出来なかった。低い声は寝ている婿や孫への配慮だったが、一瞬胸騒ぎを覚えた。「昨夜11時過ぎ陣痛が始まり、急遽帝王切開の手術により、無事男の子を出産した」との内容。不甲斐なくも足の震えを感じたが、「親子とも元気であるとの連絡があった」と聞いて、平常心を取り戻した。

実を言うと昨夜は早く床に着いたので、5時半にはすでに起きていた。神棚と仏壇の、花の水替えを行い、いつもの通り手を合わせた後であった。いつもなら未だ、いぎたなく眠っている時間である。やはり今日の出産が強く気になっていたのであろう。

その後暫く、落ち着きの無い時間を過ごす事になる。娘からの2度のメールを読み、家人との数度にわたる電話連絡や、娘へのメールの返信、婿の父母への電話等々。

娘からの「今回の出産は楽であったし、親子とも元気であるから安心して」のメールで幾らか落ち着いたが、婿の母親に連絡して、彼女が撮影した孫の写真をメールに添付してもらい、それを確認して初めて胸を撫で下ろしたのである。

娘の出産時は、全く気遣いをしなかったのに、孫については何故こんなに心配するのであろうか。年を取ったせいなのかも知れない。

近くのJR帖佐駅で、本日の日付けが付いた切符を買い、昨日の新聞とを併せ、袋へ入れた。最初の孫の時と同じように、誕生日の記念品として保管する為である。昨日の日付けがある切符は、本日は買えないので本日のものを買った。

さらなる記念として、最初の孫にもしたように、熊本城の一口城主として、芳名板に名前を刻して貰う寄付をするつもりだ。年金生活者には高額な寄付であるが、お世話になった熊本市へのお礼でもある。

あと1ヶ月余りで彼らに会うことが出来る。待ち遠しいことである!

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2009年7月31日 (金)

孫の名前を考えた。

毎月月末はスポーツジムの休館日で、正直ホッとする。ならば義務的に行かなければ良いじゃないかと言われそうだが、結構高い月会費を払っているので、少々気が進まない日も行くのである。ズル休みした日は気が重いが、今日は十分な開放感を味わえる。加え、溜まっていた作業を片付けたので好きな事が出来る。

先日、プロジェクター用5.1サラウンドのウーファーと、音楽CD用のウーファーの取り替え作業を行った。プロジェクターのウーファーにはBOSEを使っていたが、映像を見るには重低音が望ましいと思い、20年以上使っているKENWOODのスーパーウファーと取り替えたのである。3時間近くの作業であった。

今日はゆっくり音楽CDを聞こうと思っていた。BOSEのスピーカーにBOSEのウーファーなので、相性良く良い音が出るのではと期待したが、どうしても低音が不足して期待はずれであった。仕方なく、わが青春時代に流行ったアメリカンポップスをバックグラウンドミュージックにして,図書館から借りた山本 兼一の「利休にたずねよ」を読み始めた。リクェストして2ヶ月半待たされた評判の本である。次に待っている人がいるので早く読み終わりたいが、長い時間読むと目が疲れ、涙が出てくる。適当な時間で止めた。

昨日、町の図書館に行って、正確な題名は忘れたが、古文書を読むに際しての基礎知識みたいな本を見つけた。ま、良くぞ調べたものだと感心するような内容で、江戸時代の大老、老中、大阪城代、京都所司代などを勤めた大名の名前、領地、勤めた期間、そのときの将軍の名前等々、その他多くの資料が編纂された本である。

僕が欲しかったのは、大名や旗本の通称、名前である。「右京」「左京」「右近」「左近」「采女」「主水」「兵庫」「式部」「主税」「靭負」「隼人」「和泉」「帯刀」「玄蕃」「求馬」「兵部」「織部」「主計」「又四郎」「籐十郎」その他たくさん。

実は8月に生まれる二番目の孫の名前を探していたのだ。最初の子供には「伊織」と付けた。これは僕の希望で、昔の武士の名前を付けさせて貰った。二番目も男子と判明したので、今回もわがままを言わせて貰おうと、武士の名前から候補を探したのである。

2,3を除いて、どれも姓にぴったり合いそうである。鹿児島に関係の「隼人」も良いし、神戸に住んでいるので「兵庫」も良い。「右近」も「式部」も「和泉」も良い。とうとう決める事が出来ずに、決定を委ねるべく娘夫婦に手紙を出した。手っ取り早くメールでも良かったのだが、一生使う名前の尊さ、その重さを思うと、その選択を行う原版を、メールでは送りたくなかった。同時に僕等の真摯な態度も判って欲しかったので。当然の事、婿の両親への配慮も十分滲ませた文面にした事は言うまでもない。そんなこんなで今日も一日が早く過ぎ、やがて暮れてきた。さて、晩酌だ。

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2009年7月25日 (土)

「ポポー」と呼ぶのだ!

昨日偶然、NHKのテレビで確か「趣味の園芸」とか呼ぶ番組を朝食後に見た。俄か花愛好家になって以来、不思議にもそのような番組に自然と注目が行くようになった。今回はわざわざ番組を待っていたわけではないので、偶然である。

この番組で、知りたいと思っていたある植物の正式名をようやく知った。その植物は「ポポー」であった。果実が非常に美味である事もこの時初めて知った。

数年前、サラリーマン時代の同僚から「珍しい種を入手したので植えてみないか。入手が困難だから二粒あげる。名前はポポだ」と言ったのであろうが、その名前を僕はいつの間にか「ポム」と誤って呼んでいたのである。しかし、どうも間違っているようだとも感じていた。

果実が食されるということを、同僚が言わなかったので、単に珍しい木であるとの一点から、通路のブロックの後ろに穴を掘り、一粒の種を放り込んだ。安普請の家だから、盛り土も殆どシラスに違いない。そういう思いから、水と共にかなりの肥料を入れ込み土を被せた。もう一粒はどうも捨てたらしい、今となっては惜しい事をしたものだ。

経過年数は忘れたが、何年か後(と言っても1、2年位か?)に出てきた木の芽を見つけて喜んだ。植えた事を決して忘れてはいなかったので、ポム(ポポー)が発芽したと確信したのである。

それからは樹も大きくなり、葉も生い茂り順調に成長したが、今年になるまで花を見ることは出来なかった。しかし今年6月頃には高さが7.、80センチまで伸び、こげ茶色と紫を混ぜたような色の花が幾つか咲いた。

どんどん伸びる様子を見せたので、家人は「狭い通路に生い茂るので、常に剪定して下さい」と言う。僕も、「枝に似合わぬ大きな葉っぱが生い茂るだけなら、邪魔だな」と思い、熊本の友人で広い敷地を持つMさんに「適当な時期に持ち帰って、お宅で育てて欲しいと頼み込んだ。捨てるには忍びなかった。彼は農業系の学校を出ているので、植物には詳しい。「適当な時期に植え直すか」程度の会話で終っていたが、僕はそうして欲しかった。

しかし、ポポーは食すことが出来て、且つ美味であることを知った今、手放す事が惜しくなった。来年結実しなくとも何年か後、育てた樹の果実を(たとえ不味くても)喰えるなど、生涯で何度も経験できる様な事ではない。トマト、きゅうりの類では無く果物なのだ、よし僕が育てよう。

名前を知ってネットで検索したら、ポポーを育てている人は結構いた。数年に亘ってその生育を記録したブログを拾い読みして、お気に入りに登録した。高さも4メーター位まで伸びる事があることも知った。

Mさん、そう言う訳なので今回の話は無かった事にして、結実したら食した後の種をあげるからこれで勘弁してね。

ポポーの樹(花は散ってしまった)

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2009年6月21日 (日)

久しぶりの降灰に驚く。

6月17日夕方、桜島がかなり大きな爆発をした。その日の午前中宮崎市の従兄弟夫婦が訪ね来た。10月に予定している従兄弟会の打ち合わせが目的である。連れ合いを含めると40数名の規模になるので、調整が簡単にいかない。

打ち合わせ後食事をしながらの雑談で、桜島の爆発が話題に上った。冬は北風あるいは北西の風が吹くので、爆発した場合は噴煙は大隈半島へ流れる。夏は東風や北東風が多いので薩摩半島の鹿児島市内や南方面へ流れる。僕が住む姶良町方面は桜島の北側に位置するため、雨が降る前か当日の南風が吹く以外は影響を受けないため、県内では住み易い町であること等を話した。

梅雨には入っていたが入梅宣言の翌日からさっぱり雨は降らなかった。それでも当日は東風から南東の風が吹いていたのであろう。実に皮肉な事に従兄弟夫婦が帰って行った何時間後に、大規模な爆発的噴火をしたのである。

TVは、噴煙が高さ2,500メートルまで達したことを告げ、大量の灰が桜島の東側を通る国道10号線を覆い、車はライトを点灯しながら走行している様を流していた。やがてその降灰が僕が住む町へ攻めてきた。久しぶりの大量降灰であった。見る間に空は暗くなり灰が落ちてきて、家の中は締め切っていてもザラザラ。

実に迷惑な灰であるが、自然の力には勝てないので県民は諦めながらも共存の道しか選べない。厄介な活火山桜島であるが、鹿児島のシンボル的存在である。パソコン、テレビ、DVDレコーダー、プロジェクターなどの精密機器類に影響ないように細心の注意をしながらの生活を強いられる。

ここに翌日撮影したデジカメ写真を掲載するが、多分粗く小さい画像なので、灰を識別できないかも知れない。水で洗い流した映像と比べてみたく、それも併せ掲載する。

ブーゲンビリアの花と積もった灰

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のうぜん桂の花に積もった灰

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車のワイパーに積もった灰

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水で洗い流した後のブーゲンビリアの花と葉

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水で洗い流したブーゲンビリアの葉

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2009年5月25日 (月)

友、遠方より来たる。

この1週間に3名の友が訪ねて来た。1名は大学時代の友人、2名は中学時代の友人である。大学も中学もクラス会として2年毎の開催が決まっており、どちらも来年の予定である。因みに高校は来月下旬、5年ごとに行う記念同窓会として行われる。

東京に住む大学時代の友は昨年のクラス会寸前、身内の不幸で参加出来なかった為、熊本で行われた高校の同窓会のついでに鹿児島まで足を延ばす事にしたらしい。新幹線で到着した友の希望で、直ちに母校の学部を訪ねる事にした。第1回のクラス会を平成5年に僕の幹事で行ったが、集合場所としてそこを選んだものの、校内散策に掛ける時間が取れなかった。

卒業以来45年経っているので、全て様変わりしている。当然先生方は退職されているので、知っている人は誰もいない。事務室で挨拶すると全員起立しての返礼であった。木造の校舎は当然鉄筋に変わっており、場所も昔のままではない。実習室、実験室の場所など全く判らなかった。

学部裏門

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一般教養から専門に移った時、学部の前は海であった。国道の下の水門からヨット、カッターを出した昔を思い出しその水門を捜した。あった!二人ともほぼ同時に感嘆の声を上げた。水門跡が記念碑として残されていたのである。実に嬉しく安堵した。思い出深い場所故に、有難く感謝したい気持ちになった。

水門跡

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卒業後2~3年の間にその海は埋め立てられ、現在は球場、ホテル、放送局その他の施設が立ち並んでいる。綺麗な松原のヨットハーバーがあったことを知っている人も少なくなっていくだろう。土地の少ない鹿児島市としては、埋め立てが土地確保の最善策であったにしても、海に関係する学部の卒業生としては寂しい限りである。約1時間半、回顧談に時間を忘れ隅々まで歩き回った。

昼食を取った後桜島へ行きたいと言う彼の願いで、フェリーに車を積み20分程度で現在は鹿児島市になっている桜島へ渡った。彼は学生時代1回しか渡った事が無いと言う。

鹿児島の話になると「桜島に良く行かれたでしょう」と聞かれるらしい。その都度「ええ、まあ」とかでお茶を濁したが、今回良く観察し脳裏に焼き付けようと言っていた。晴れて、涼しい絶好の観光日和であったが、期待した爆発は起きなかった。海釣り公園で釣り客と話したり、溶岩道路を走り、林 芙美子の文学碑を訪ねたりして僕の家に落ち着いた。

フェリーから桜島を。

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海釣り公園での釣り人。

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級友の消息についての内容が、仕事から本人や連れ合いの訃報や病気に変わるのは、この年齢になると何も不自然な事ではないのだが、飲んでいてもやや湿っぽくなるのは避けられない。この話から何故そのようになったのか思い出せないが、来年僕が上京して関東在住の級友達と会う事を約束させられた。

3日後、中学校の同級生が2人訪ねて来た。一人は福岡から一人は熊本からであり、それぞれ5年半ぶりと1年半ぶりに会う友である。中学時代は常に一塊で行動していた仲の良い級友であった。

「去るものは日々に以って疎し」、よく言ったものである。進んだ学校が違い、さらに勤めた会社が違い、趣味が違ったり生活する都市が違えば、よほど「親友、心友」の間柄でないと次第に交情が薄くなるのは当然の事である。

二十数年前に一寸した行き違いで、一時交友が途絶えていた一人が、関係修復のためにもう一人を誘って来たのであるが、個人的には全くと言っていいほど、不快に感じていなかったので驚くより途惑った。

自宅に訪ね来た彼等と挨拶を交わし1時間程度の雑談後、3人で鹿児島市のホテルにチェックインした。夕方から生憎の雨になったが天文館の居酒屋で飲み始めた。友としては、これで一区切り付けたいという気持ちであったろう。

核心の行き違いについては触れず、当たり障りの無い会話と、級友の消息が話題の中心であった。彼が当時の心境を全て吐露するには、僕との距離が縮まっていなかったからであろう。熊本市でも一、二番のマンモス校であったので、悲しいかな級友の顔と名前が一致しない事もあったが、次第に当時の先生方の顔、出来事なども懐かしく思い出されてきた。

僕の気持ち一つで3人が再度、昔みたいな仲間として付き合えるような雰囲気でもあったが、希薄になった関係は頻繁に会ったり会話しない限り、その関係を続けて行くことが難しい事は、過去の経験で良く解る。

翌日は近くの観光地を案内する予定にしていたが、彼らは純粋に僕と飲み、話す事を目的で来たのだ。僕の誘いも断り、チェックアウト後中央駅から新幹線で帰って行った。

中学時代あれほど仲の良かった仲間も、数年に一回程度の接触では当時の親近感は保てず、距離を保っての交友関係が今後続くであろう。二人に対して申し訳なさを感じながら帰宅した。

遠くの親戚より近くの他人と言われる如く、人間は晩年になると万一の場合や、日常お互いが助け合う為には近くに住む友人が頼りになる事が多くなる。遠くの友人を蔑ろにする気持ちは全くないが、居を定めた地域の人達や、近くの友人達との交友は心して深める必要がある。今回の古い友人達の来訪を切っ掛けに、色々考えさせられた日々であった。

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2009年5月15日 (金)

一ケ月ぶりの郷里と花いっぱいの友人宅。

高校時代の友人3人で始めた「3人会」のメンバーから「久しぶりにどうだ」との電話。今月はスケデュールがいっぱいであったが「喜んで行く」と伝えた。月に一回は熊本へ出かける予定にしているが、墓参と飲み会では二日の行程が勿体無い。

元職場の友人達にゴルフの組み立てを依頼して、早朝に姶良を出発し熊本迄2時間弱、9時前には到着した。たまにはメンバーコース以外でのプレーも良いのではと、年金暮らしのリタイアー組には打って付けの「ファミリーコース」でする事になったらしい。グリーンは二つあるが、一つのティーグラウンドで場所を変えて打って行く9ホールのコースである。食事もクラブハウスではとらず、手作りの弁当やコンビニで買ったお握り・サンドイッチをスタート待機小屋か芝生の上でとる。僕らのゴルフはこの程度で十分だ。

当日は高温であったが、爽やかな風が吹いており実に快適であった。会話も弾み1ラウンドも2時過ぎには終了し、父母が眠る墓地へ急いだ。最近の出来事を報告し花を手向け、飲み会会場へ。

「3人会」は結成後入会者が増えて8名程度になり、まだ増えそうであるが名称は変えていない。「今日は幹部会だから3人で飲むぞ」との連絡を受けていたので、何年ぶりかで結成時の3人での飲み会を始めた。「卒業後50年、何とか生きてきたなー」、節目の年だけに過ぎ去った昔を偲ぶ言葉が出たりもしたが、声だけには自信のある3人は、2次会では点数が表示されるカラオケセットに向かい競って歌い、気勢を上げた。僕はそこで別れ、食いたかった熊本ラーメンを食べたが、彼等二人はさらに行きつけの店で飲んだ事が、翌日届いたメールで判った。夜の繁華街は不景気を如実に反映して、客待ちのタクシーだけが矢鱈に多く、狭い道を占拠していた。

翌日は、先日キャンピングカーで2泊して初乗りを経験させてくれたMさん宅を訪ねた。熊本市から南東に7,8キロの彼の家は多分400坪くらいはあるだろう。大きな樹木もあるが花好きの夫人の趣味で、一面花、花である。

地植えの花と鉢植えの花。

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僕が彼らにびっくりグミの話をした時、「家にも生っているから見に来ないか」と言われ、それが目的で行ったのである。

僕のグミとは比較にならない程の大きく茂ったグミで、実の数は余りに多く、赤く熟れた実は少し渋みもあるが甘かった。僕の小さなグミの木も、來年こそ何とか多くの実を付けるように育てたい。

グミの木

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鹿児島の友人Hさんから貰って移植した「タラの木」は、僕の知識不足で枯らしてしまったが、Mさんの庭にも大きなタラの木が何本も植わっていた。「来年2月ごろ欲しいだけ持っていけ」と言ってくれたので、その移植に適した2月頃を楽しみに待ちたい。

昼食を戴いた後、時間はたっぷりあるので3号線をゆっくり南下し、水俣から大口市を経由して姶良へ向かった。途中の西回り自動車道の無料通行区間も、日奈久から佐敷(芦北町)まで延びており、ここ2年以内に全面開通することで、3号線を4時間以上掛っていた鹿児島、熊本間が半分以下に短縮されるであろう。隔世の感ありである。

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2009年5月 8日 (金)

4個実をつけたよ、びっくりグミが!

緑色の実を発見したのは、4月29日である。たった1個の実を発見して小躍りした。5年間待っていたのだから。

5年前、孫が生まれた記念に、当日の新聞やJR熊本駅の入場券を買い集めた。確か新聞は夕刊で、刑死したイラクのフセイン大統領が逮捕されたことを、殆ど1面を割いて伝えていた。手伝いの為に神戸の娘宅へ行った家内への、娘からの感謝の手紙等と一緒に袋へ詰めた。

孫が生まれて2ヵ月後に、恒例の熊本市春の植木市が始まった。当時住んでいた自宅から歩いて3分の、白川の河川敷で開かれるので、この準備が始まると「いよいよ春だ」と心も温かになる。国内でも規模では大きいほうに属するらしい。

出生記念に樹木を植えたいと思っていたので、早速買いに行った。木市だから候補の樹木は沢山ある。折角植えるのだから実のなる木が良いと考え、「びっくりグミ」を選んだ。

「実がなるかなー?」と問えば「必ず成ります」と答えるので、プロの返事だから間違いないと思い買った。暫くして、現在住んでいる姶良町の自宅へ持って行き、門扉の近くへ移植した。それまでに幾つかの樹木や草花を植えているので、今回も失敗するなど考えもしなかった。でも、根着いたと確信するまで結構な日時を要したと思う。今回は絶対失敗したくなかったので安堵した。

一昨年、姶良町へ引っ越したが、昨年までとうとう実を結ばなかった。何故結実しないのか素人へ聞いても的確な答えは返ってこない。ネットや本で調べれば判るのであるが、そこまで熱心ではなかったのは、「アー騙されたのか」と殆ど諦め、「木だけでも育てば孫も順調に育つ」とゲンを担いでいた為である。

育て方、特に剪定や肥料についての知識は全くない。茂りすぎて邪魔だと、時期を選ばず切ってしまう始末である。ただ、今年は例年になかった現象、白い花がわずかな数であるが咲いたのである。それでも実がなるとは確信が持てなかった。

それがである、4月29日に何気なく茂った部分をふと覗いたら、たった1個であるが緑色のグミの実を発見したのだ。そりゃーもう嬉しくて大声で家内を呼んだ。何か素晴らしいことが起きる予兆なのではと、心が弾んだ。

5年も待って1個だけでも実が着いたのである。それから1週間後、その実が赤く熟れ出した。ひょっとすると後ろ側にも実が生っているのではと、通路側に回ってみると、なんと3個も発見した。そのうち一つは赤く熟れ出している。

遅まきながら、ネットでびっくりグミの育て方を検索しその要領をプリントアウト。剪定時期や、花の時期にジベレリン処理をすれば実を多く出来る事、収穫時期が6月頃である事、木に棘がない事等を知った。

ブログでも度々取り上げているが、最近草花に興味を持ち始めた。でも悲しいかな僕の家は狭く、庭と呼べるような土地がない。仕方なくプランターや、鉢で育て始めたが、育て方の知識がない。水と肥料は時々やるが、それも思いついてである。

昨日は近くのDIYショップに行ったら、母の日のための花コーナーに所狭しとバラを初め、種々の草花が並べてある。実に綺麗で30分余り観て回った。

友人のHさんは冗談で言う、「草花に異常に興味が沸いたら、もうあんたは余り先が長くないよ」と。異常はオーバーであるが、確かに草花に愛おしさを感じ始めたのは事実である。願わくば少々長生きして、花に囲まれた生活をしたいと思う此の頃である。「色々、遊びはやるが将棋と盆栽は興味がないよ」と言っていた若い頃からの、この変わり様は自分でも不思議である。

熟れ始めたびっくりグミ

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未だ熟れていないグミ  後方にも小さなそれが・・・。

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2009年4月25日 (土)

気の置けない仲間とのゴルフ、飲み会はやはり賑わう。

僕にとっては今年3度目のゴルフである。例年なら既に8回位はプレーしている計算になるのだが、当地に仲間がいないことに加え、故郷の熊本へ出かける回数が減ってしまったことも原因にある。

友人のO君が幹事長になり、僕の転居に伴う送別ゴルフと飲み会をセットで計画してくれたのが発展して、年二回の「辰・ドラゴン会」なる名称で定着した。今回は5回目の会合で、僕が住む鹿児島県で行うことに決まっていた。

ゴルフ場も泊まる施設も、我々が勤めた会社の関連会社を利用させてもらうことになったので、そのゴルフ場で働く元仲間とも再会できる楽しみもあった。気の置けない仲間との再会はこんなにも喜びがあり、会話も弾むものなのか。殆どの人とは5ヶ月ぶりの再会であった。

スタート前の集合写真(蒲生カントリークラブ)

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4組16名が好天のもと、賑やかにスタートしていった。僕のパーティーの一人は長年一緒の工場で勤めたことのある友人で、現在このゴルフ場の常務をしている。昔も上手かったが、僕みたいな下手な者とは一緒に回るのが気の毒なくらいの上級者になっており、夜の宴会で彼の優勝が発表された。

プレー後は風呂にも入らず、車で1時間の距離にあり霧島の山中に建つ、元職場の保養所に向かった。早速掛け流しの温泉で汗を流したあと会食に入った。水も飲まず我慢していたので、一杯のビールは素晴らしく美味しかった。皆の注目はコンペの結果である。僕はスコアからブービーを覚悟したが、ハンディーに助けられ4位、それでも余りにも多いグロス数とハンディー数にプライドはズタズタであった。

食事風景

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心地良い気分になった後は別室に移動、ここからが本番である。仲間にはプロ顔負けと言っても過言でない、ギターとハーモニカの名手T君とY君がおり、この二人はボランティアで老人ホーム、特養等を回り、伴奏したり時には自ら歌って、老人達の心を和ませているのである。我々も彼らの伴奏に合わせ、年相応の時代の歌を心行くまで楽しんだ。

ハーモニカとギターで演奏するY君とT君の二人。

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一段落したところで、次はO君による居合い抜きの実演である。彼はここ5年足らずで5段を允許されたくらいの実力者である。30分位にわたる説明つきの演技に皆、真剣に見入った。古武士を思わせる風格は、性格同様持って生まれたものだろう。

居合いの演技を見せるO君。

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この後は、Mさんによる相撲甚句の披露である。彼は小学生時代から野球をやっていたし、ゴルフも上手いスポーツマンであるが、相撲に興味があることは長年の付き合いにも関わらず知らなかったので驚いた。熱心にその同好会で練習したらしい。アンコールが出るくらいに酔わせてくれた。

相撲甚句を披露するMさん(立っている人)

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若いときみたいに疲れが直ぐ取れないことを、皆自覚している。「じゃー最後に全員で歌ってお開きにするか」と誰とも無く言い出し、過ぎ去った青春時代を懐かしむように、トップギャランの「青春時代」を合唱後、次回の再会を約し、それぞれの部屋に帰って行った。ある部屋では最年長者のKさんと、彼を尊敬していると言うHさんが囲碁を打つことになり、僕は最後まで彼らの対決に立会い、伯仲したが3目差でKさんの白勝ちを宣した。

青春時代に思いを馳せ・・・

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霧島保養所遠景。

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2009年4月10日 (金)

自治会役員の打診を受けたが・・・。

先日僕が住む自治会の現役員T氏から電話を受けた。今回自治会の改選があるので、その体育部の部会長になってくれないかとの打診であった。2年前まで住んでいた生まれ育った熊本市では、「老人会」という名称に抵抗感を覚え、何回かの加入要請にも頑として断り続けたのであるが、当地へ骨を埋めるつもりで引っ越して来たからには、早く地域に溶け込みたいと積極的に色々な行事に参加してきた。が、こんなに早く役員への要請があるなど考えもしないことであった。

T氏いわく「あなたはゴルフとかグラウンドゴルフに良く参加されて、なかなかのスポーツマンらしいとの噂である、何とか受けてくれませんか」。僕は驚いた、生まれてこのかた人様から「スポーツマン」などと言われたことは金輪際無いし、実際運動神経は鈍い。ゴルフは何十年やっても上手くなれない、たまたま最初に参加した自治会主催のグラウンドゴルフ大会において、ビギナーズラックと呼ばれる幸運で、連続ホールインワンがあり同点2位になっただけで、週2回行われる同好会の試合では中々上位に着けないのである。

それでもその甘い言葉に酔い、一瞬「じゃーお受けしましょうか」と言いそうになった。加え「非常に少額ですが年に数万円の慰労金も出すことになっています」の一言に「少額でも今の自分には助かるなー」と殆ど承諾しそうになった。よく聞くと、年に10回程度の会議参加とスポーツ開催時の諸手配や自治会員への連絡等が業務らしい。

友人の何名かは65歳まで働いた。僕は60歳で年金生活に入ったので、家内に対して幾らかの申し訳なさを感じていた。今考えると体力的にも自信を持ち、負けん気の強い僕が、何故働かなかったのか不思議に思う時もあるが、その時自分で決断した事でもあり、何より後悔先に立たずである。亡き父から幾ばくかの生活費を補助して貰っていたことも、自分を甘やかす原因でもあった。何より何ものにも拘束されない環境が居心地良く、半年が過ぎた頃は完全にぬるま湯にどっぷり浸かっていた。

地元の役に立ちたいとの気持ちは今も持ち続けているし、それは偽りのない気持ちである。だが、承諾の返事は出来なかった。理由は一つ。僕らは留守にすることが多いのである。肝心の時に留守をして、自治会員に迷惑を掛けてはいけない。電話の間にそのことが頭を過ぎった。ようこそ踏みとどまった。受けていれば必ず後悔することであったろう。拘束されて、遠くに住むやがて2人目を出産する娘の所へ行けなかったり、趣味や法事の為の外出、外泊が出来なければ、これもまた後悔すること必至である。加入しているいくつかの団体や会を絞らねばと考えた。

友人O君は宮崎県から熊本県に移り住んで長いが、彼は完全に地域に溶け込み、人柄と面倒見の良さで部落住民から尊敬を集め、自治会の三役を務める迄になっている。只、そのことにより時間や日時的な制約を受け、仲間内の行事に参加出来ない事がある。友人Mさんは町の教育委員をつとめており、我々仲間内の行事計画は、委員会の開催予定時を外して組まねばならない。友人Hさんも自治会の連絡員を依頼され、忙しくなったらしい。

僕はこれらの事実を思い出したのである。このように受けた任務はそれを最優先にすべきことは当然なので、やはり僕はここ暫くは、責任ある業務を軽々しく受けることが出来ない。

Tさんには自分の気持ちを正直に伝え懇ろに断ったが、正直、頂ける慰労金が飛んでいってしまったのは残念であった。後日自治会長に会った際、「あと2年位待ってください、そのときはお役に立ちたいと思います」と伝えた。その頃再度の要請があるかどうか判らないが、あればお受けして町内自治会の役に立ちたいと考える此の頃である。

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2009年3月21日 (土)

ものの見方を教えてくれた本。

読書好きの友人から「面白い本があるが、読まないか」と勧めてくれた本がある。新潮社発行  高山 正之著「変見自在 サダム・フセインは偉かった」である。僕も久しぶりに辛口のコラムを読んだ。

週刊新潮に連載されたものを単行本化したもので、まさしく超辛口である。山本夏彦氏の書体に似ており、引き込まれて僕にしてはかなり早く読んでしまった。流石に新聞人で、しかも時事コラムも担当されていたので、ものを知りすぎるほど知っておられる。「知ってる事を述べる」というより「ものの見方はこのように見る」のだという事を教えてくれる本である。国を名指し人物を名指し、糾弾に等しい批評はよほど度胸と自信がないと出来ないであろう。特に朝日新聞に対する敵意むき出しの論評には、これで訴訟問題にならないのが不思議なくらいであるが、何も起こらないところを見ると朝日新聞側もそれを認めていると言う事か。胸の痞えが下りるコラムが沢山あり、物の見方は斯くあるべしと、単純な僕にとってはその面から為になる本であった。

その彼が別の本を、また貸してくれた。今度借りた本は、9.11テロはアメリカの捏造であると述べる「9.11テロ捏造  日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ」である。この種の噂は随分前に聞いたことがあり、個人的には大胆な発想にまさかとは思っているが、先の本と同じく見方によっては信憑性を帯びてくるかもしれない。目が疲れるので、目薬を点しながら読み進めよう。

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2009年3月 5日 (木)

”すごい”とは便利な表現?

ひょっとするとタイトルの内容は、NHKの「気になる言葉」で取り上げられたかも知れない。今月2日、大学の先輩から誘われ、車で約2時間の海岸へイカ釣りに行った。残念なことに3匹を近くまで引き寄せたのであるが、未熟な腕前のせいで3匹とも海の中へ逆戻り。帰りの車中は暫くの間、悔しかった今日のつり談義。興奮も収まった頃、話は政治から経済、最後は最近の若者の言葉遣いまで言及。彼が「最近の若者は感嘆したときに”すごい”の一語で表現する。実にボキャブラリー不足だよなー」僕は「全く同感、同感、か前々から気になっていました」

「美しいとか、明るい、などは名詞を修飾するから形容詞ですよね。”すごい”というのは素晴らしいという意味なのでしょうか?」「そうとしか考えられないね」

「うーん、美しい、明るい、などの形容詞を”すごい”の一語で済ませているのだろう」「でも、彼らは”すごい美しい”という表現もしますよね」

僕らは”すごく美しい”と使う。今でもTV等で”すごい気になっている”などの発言があると、字幕では”すごく”と直されている。従ってその後に早いとか美しいとかの形容詞が続く表現が普通であった。それを単に”すごい”で表現されると「どんなにすごいのだ」と聞きたくなるのだが、皆はどうなんだろう?

重ねて彼が言う「特に若い女性の会話には、必ずと言って良いほど、殆どの人が”すごい”と表現するよ」。特に女性の間では違和感なく使われているのだろうか。

ま、それで話す人も、聞く人も特段違和感を覚えなければそれで良いのかも知れないが、手本となるべきアナウンサーが”すごい”を当たり前のように使っているのを見ると、やはり少々可笑しいのではと首を傾げる。

帰宅した後、気になって国語辞典を引いてみた。”すごい”はあった。漢字では「凄い」が充てられ、意味は「恐ろしい」「素晴らしい」「すさまじい」「甚だしい」の4つが挙げられていた。とすると、包含された意味を一括りとして、”すごい”の言葉で表現しても間違いではないようにも思われる。それでも聞く方とするなら、恐ろしいのか、素晴らしいのか、すさまじいのか、どれなのかを相手に伝える事が、自分の感情を正しく表現することになるのではと思うのだが・・・・。以上の4つのほかに形容詞として使われる殆どが”すごい”に括られ、今後使われ続けることであろう。

ただ、「すごい美しい」などは、十分意味は汲み取れるが、僕には形容詞を2つ並べたようなこの表現が、どうにも気になって仕様が無い。正しくは「すごく美しい」なのでは?「実に美しい」などの表現もあるのではと思うが。

断っておくが、僕は教師でも無いし、国語の知識があるわけでも無い、数十年前に習ったことをいくつか覚えていたに過ぎない。文中に正しくない説明や表現があった場合には、どうかその点をお含み戴きご容赦いただきたい。本日は釣から帰宅する車中の、取り留めない会話を題材にした。

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2009年3月 1日 (日)

今更どうにもならない能力,・・・.諦めよう。

先日、昔勤めていた工場のOB会に、閉会間際であったが出席した。その日は退っ引き成らぬ用事があるので、欠席を届けていたのであるが、どうにか間に合いそうなので、幹事に電話連絡したあと駆けつけた。遅参の理由とお詫びをし、暫く歓談の後閉めの挨拶と万歳三唱を指名された。

現役時代は催事、行事の開会や閉会挨拶などは職務の一つみたいなもので、好むと好まざるとに関わらず、行うべきものであった。ただ当時から自分の話は長すぎるのでは、くど過ぎるのではと気にはなっていた。上手、下手は別にして僕は話すことが嫌いでは無いと言うより、むしろ好きなほうに属すると思っている。数年前、高校時代の有志が集まる月一回の勉強会で、5分間に限定されている基調講演を、短すぎるので15分くらいに延ばして欲しいと、幹事を困らせたくらいであるからそうなのかもしれない。中途半端な時間では話を纏めきれないのである。ために口の悪い友人から言われたように、上手く纏めて他人を理解させる能力が無いのかも知れない。

退職後8年近く経ってもいたため、会場では随分久しぶりに会う人達が多かった。ごく自然に前置きを話し始めたが、自分では気付かないまま5分くらいが過ぎた時ハタと我に返り、慌てて万歳の三唱で締めた。皆のニコニコ顔で何とか面目を施したように感じたが、やはり長すぎたのかもしれない。

勿論、「下手の長談義」など、長すぎる話に対する戒めは百も承知である。聞く側に立った時「何時まで話すのか」と心の中で叫んだ経験は数知れず。それなのに自分が話す番になると、微に入り細に渡り説明するのである。それは、そこまで説明を加えないと相手が理解してくれないのではと、恐れるからであって、例えて言えば、老人の参加者が多いツアーの添乗員のような話し方になるのである。ただ性格的には、かなりあっさり単純で、間違っても粘液質では無いと分析しているのであるが。

今後、人前で話す機会は少ないハズであるが、僕が恐れているのは話と同じく、書く作業で「くどい」と思われることである。早い話このブログである。確かに上手い人の文章は、くどくどしい説明は無くとも、十分その情景を描くことが出来るから不思議である。僕は作家でも無いし、著述を業としていないのだから、ありのままを書けば許してもらえるだろうが。

思い出すのは、その独特な表現、言い回しですっかりその人の虜となった、故山本 夏彦氏のその短い表現である。傾倒するあまり彼の表現を真似して、依頼されていた地元税務署の広報誌へ寄稿をしたことがある。彼はコラムニストとしても有名であったが、ものの本に次の言葉を残している。

「話は短いに限る。短くてよく判ると、聞く者は自分の頭が良いと思って喜んでくれる」。僕にとっては痛烈な一文であった。まさしくその通りであろう。当然それは書き物にも通じる。

この方の本を何冊か読み、表現を真似して文を書いたことがあったが、やはり人真似は何の効果も産まず、自己満足で終った。短く書こうと努力しても、理解してもらえないことが怖いし、又その才も無いのである。かくしてこのブログの如く取り留めない長い文章になってしまう。このことは読んで頂く方々を、頭が悪い等と決して思っているのではなく、僕の文章作成能力がその程度であることの証左である。どうかその点をご理解戴き、今後お読み頂ければこの上なく有難いことである。

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2009年2月21日 (土)

(株)コレガ社の営業姿勢を問う。 

無線LAN設定始末 その2を書くべく、CG社すなわち(株)コレガ社からのFAXを待ち続けているが、最初当方から第一信のFAXを送ってから2日経ったが返信が無いので、同じFAXを第2信として昨日朝送信した。が今日も返信無し。

これから、タイトルのように同社の姿勢を問いたいが、得てしてこのように相手の非を責めた文を書いた後に、待っていた返事とか回答が届いたりすることがある。今回も来週早々にFAXが届くような予感がするが、もう我慢も限界のようだ。社名も伏せていたが今回は実名を出すことにした。

実は本日も11時頃から12時迄電話した。先日同様1時間掛け続けたが、ずっと話中であった。怒り心頭までは無いにしろ、実に不愉快であった。これほど購買者をバカにした会社は無いだろう。それでもこの程度の会社が生き残っているのである。量販店で会社の評判を聞いたが、案の定営業マンは殆ど訪問しないらしい。なるほど商品の陳列も下段にあり、バッファロー社、NEC社が一番目立つところに陳列してあった。そういう所まで観察して商品は買うべきなのだと勉強になった。

良く考えてみると、これだけ沢山の人(購入した人が殆どであろう)が問合わせの為の電話を掛け続けると言うことは、商品に付いている取扱説明書の内容を、多くの人が理解できないほど、説明の仕方が稚拙なのでは無いだろうか、あるいは難しすぎるのか?パソコンについての問い合わせならいさ知らず、周辺機器についてである。理解できるような記述であるなら、これほどまでに問い合わせが多いはずは無いと思うが。事実僕の場合も「パソコンに無線ANが内臓されていれば云々」の注意書きが、一行でもあれば対処も違っていたのである。

電話が繋がらないことだけで怒っているのではない。このモノが売れない時代にあって、買った品物の取り扱い等を聞くに当たって消費者に電話代を持たせるやり方、しかも何時間も応答せずに、電話のボタンを押させ続けさせている其の思い上がった姿勢、苦情の多い電話についての改善を経営者に具申しない中堅幹部等々について納得できないのである。

僕は「顧客満足」なる言葉は一昔前のフレーズではなく、今の時代こそ求められているのではと、最初のFAXで先方に問いかけた。返事は「迷惑をかけているが、其の解決に鋭意努力している」と空々しい文言が並べてあるが、問い合わせが多いことを理由に電話が繋がりにくいことを、正当化するようにも取れる内容であった。それなら、多くの会社が採用している、代表で受信後、電話機のボタン操作で各担当へ繋いでいく方法も取れば良いではないか。電話機の向うでイライラしながら待っている問い合わせ者の気持ちが判らないのであろうか。

僕の問い合わせは、セキュリティー対策に必要な、2つの情報を教えてもらえばそれで済むことである。貰った情報をパソコンメーカーの富士通へ連絡することで、富士通が無線ANの設定を指導するとの約束を既に取り付けてある。コレガ社は土曜、日曜が休日なので、今週はもう受信できない。ここまで我慢したので来週月曜か火曜日まで待って、連絡無い場合は、無駄な出費を覚悟で他社の機器を買うか、無線ANを諦めるかケリを付けよう。

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2009年2月 9日 (月)

車の運転スピードで年齢を自覚。

統計的には知らないが、田舎になるほど軽自動車が多いように思える。僕も田舎町に住んでいるが、もっと田舎に行くと軽トラックがおおくなり、もみじマークを付けた車がのろいスピードで行き交う。昨年末頃に娘が住む神戸市を訊ね、娘婿の両親と小旅行をしたときに発見したのであるが、かの地の高速道路では軽自動車を殆ど見なかった。南九州の高速道路では結構多くの軽自動車が走っている。

長年普通車に乗ってきたが、昨年末僕の車を軽自動車に変えた。家内も軽自動車に乗っているので、本当は普通車に乗りたかったのであるが、性能的には普通車とそんなに変わらないし、乗り心地を少し我慢すれば、経費が嵩む普通車に比べ諸々経済的であるので、四輪駆動の軽自動車に買い換えた。

見栄を張るために普通車に乗っていた訳ではないのであるが、この年になれば事故を起こさない自覚を持って運転すれば、走るという機能を持っていることだけで満足するようになってきた。本音を言うと経費が掛らない点も魅力であった。若い頃は軽自動車に乗る等考えたことも無かったし、拘りの車種に何台も乗り換えた。

最近僕は田舎のおじさんと同じように、スピードを出さずにと言うより、出せずに運転している自分を自覚することが多くなった。恥をさらすようであるが、若い頃は車に乗れば人が変わった。前を行く車は追い越さずにいられなかったし、追い越されたら当然追いかけた。レーダーは必需品であったし、これなくして運転は出来なかった。それでも加齢的に運転がおとなしくなり、もう随分前からレーダーはスイッチを入れていなかったし、スピードも出さなくなった。そしてこれはどうも、意識してスピードを落としているのではなく、自然にスピードが出ないような運転に変わっていったように感じるのである。むしろ追い越されることが多くなったが、それでも3,40キロでノロノロ行く車にはイライラする。

そのようなスピードでは人様の迷惑になるし、何故こんな年になるまで運転するのかと、もみじマークの低速度の運転者に対し思うことがあるが、僕もそこまでのろい速度で、迷惑になるような運転はしないだろうと思うものの、確実に運転速度は遅くなっている。年老いていくことの一つのバロメーターともなろうか。やはり僕ももみじマークを付ける年代には、邪魔者扱いされるようなスピードで運転しているのかな?今日、300メーターくらいの間に3,4台の車から追い越され、思いついて本日の題材とした。

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2009年1月 3日 (土)

心に残る年賀状。

新しい年が始まった。例年帰省していた娘一家が、今年は妊娠がはっきり確認できたため大事をとって帰省しないことになった。実に寂しい限りであるが、家内と二人きりの正月になった。有り余る時間を使い今年は頂いた賀状を念入りに読んだ。

年賀状の中には、先方から頂くのでこちらからもという理由で、殆ど顔も想いださない方との交換もかなりの数になる。割り切って考えれば、そのような方とは交換の価値がないのではと思うのであるが、今年もやはり頂いた。名前だけは覚えているので、こちらから中止する勇気が無いのであるが、実は先方も同じ思いでいるのでは無かろうか。ここは思い切って割り切る必要があるようだ。来年から賀状交換の整理に掛ろう。

喪中による欠礼のハガキは年末までに30通以上頂いた。今までで一番多かったように思う。自分や連れ合いの親達の不幸に続き、今後は本人や兄弟、又それぞれの連れ合いの不幸の時代に移っていくだろう。自然の摂理とは言え無常を感じずにはいられない。

今年頂いた賀状の中で心に残ったものがある。数年前に奥さんを亡くされ、息子さんと二人で生活されている先輩で、それでも前向きに生きておられる方である。結構な高さの山に700回以上も登山し続け、マラソンに挑戦し、サイクリングに汗を流し寂しさを吹き飛ばそうと努力されている。アマチュア無線を通じて知り合って30数年の付き合いである。その方から今年は次のような賀状を頂いた。

「今年は73歳、これからは一年一年が大切な年、明日は無い、今しかない、今を大切にという気持ちで日々を大事に過ごしたい。無理をせず、山登りをはじめマラソン等で体を造り、周りの皆さんに迷惑を掛けないように気をつけたい。命 心 時 この見えない三つを大切に感謝の心で大事に生きて生きたいと思う」

年末には次のようなメールも貰った。「今年こそ、今年こそと意気込んだ若かった頃とは違い、最近では身も心も軽くしようと心がけています」

言うは易しと言うけれど、この方なら実行できると僕は確信している。それでも最後には次の言葉が書き加えてあった。「人生は一人旅と言うけれど、後半はきついです」人生後半を奥さんと仲良く生きてゆきたいと考えていたのに、残念なことにその後半を一人で生きることになった。それが辛いと言うことである。心中察するに余りある。僕が当地へ引っ越す半月前に彼の家を訪ね、駐車場で別れた優しい顔を思い出す。先輩、負けないで!

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2008年12月25日 (木)

買わずにはいられない・・・欲望を抑えきれなかった無駄遣い。

生まれつきなのか、育った環境なのか、意志薄弱で物欲の強い我が性格が恨めしかった。昨年当地へ引っ越してきた際、昔買ったもので、大事に保管していたワープロ、ビデオデッキなどを屋根裏へ収し込んだ。今年の夏それを取り出して、何れブログの材料にすべくデジカメで撮影した.。今回、自分の欲望を満たすために家内に経済的な負担を掛け続けた償いに、このタイトルで過去を振り返った。

物が簡単に入手できると感じたのは昭和39年か40年、社会人になった年か次の年である。今は誰でも持っているクレジットカードを始めて作った年であったと記憶する。今は世界的な大企業であるソニーが、未だ発展途上にあった時代、小型のテープレコーダーを発売した。確か「ソニオマチック」という名称であった。CMソングのメロディーも覚えている。目的は思い出さないがどうしても欲しくて、2年間の月賦で買った。ただ、テープレコーダーの価格と使用年数は思い出せない。安月給でも割賦で欲しい物が入手できる喜びを知った初めての買い物であった。

昭和42,3年頃、これもブームになったコロンビアの「アンサンブル型ステレオ」を質店で入手、やがて「ブックシェルフ型」のステレオが発売され、すぐ買い換えた。パイオニアの3点セットであったが、これだけは長く楽しんだ。それでもそのあと3セットは買い換え、現在に至っている。昭和45年には「タイプライター」が欲しくなった。別に目的があったわけでもなく、暫くしたら殆ど新品のまま倉庫行きになった。当時珍しい英語とひらかなが打てるタイプであった。

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次は、子供の誕生をきっ掛けに成長記録を撮るべく、これも多くの物好きが欲しがった「フジカシングルエイト」名の8ミリ撮影機と映写機を手に入れた。この頃会社の互助会が低利子で金を貸すようになり、簡単気軽に物が買えるので有難く利用させてもらった。録音できない安物ではあったが、子供の小学校入学まで結構愛用した。2,3年前スクリーンへ映し出した映像を、傍からビデオカメラで撮影してDVDへ保存した。ビデオカメラの発明とともに世の中から消えたが、僕は大事に保管している。

次はビデオデッキの出現である。昭和51年頃に「シャープのマイビデオ」なるものを買った。確か16万円くらいしたと記憶している。これは良からぬ裏ビデオを見たいがために買いを急いだ。ピアノタッチ式のかなり大型で重たい物である。アナログのため操作は簡単であった。テープをピアノの鍵盤の形をしたボタンで、ガシャンと押し下げ挿入するタイプで、1倍速しかない。生テープはその当時1本1、800円~2,000円もする貴重な品であった。現在ビデオデッキは安いものだと1万円程度で買える。隔世の感がある。

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昭和57,8年頃、もしかするとそれ以前かもしれない、ワードプロセッサーなるものを見た。見たからにはどうしても入手したい。役所勤めをしていた弟に頼み、出入りの業者から「ミニ書院」というワープロを買ってもらった。ディスプレーは1行しかなく、改行したら前列にはどんな文章を打ったのか、前列に戻さないと判らない代物であった。確か当時12万円程度支払ったと記憶する。これもあまり活用することなく倉庫へ行った。今の時代既にワープロなるものは売られていない。さらにビデオテープ背面のラベルに印刷する特殊ワープロも通販で買って、ビデオ全盛時代には活用した。

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昭和58年頃会社の研修会において、生まれて初めてパソコンについての教育を受けて、カルチャーショックと言えるほどのショックを受けた。寝ても醒めてもパソコンが頭から離れず、とうとう辛抱出来ず家内を説き伏せ買った。パートに出ていた家内に少しの気兼ねがあったのだろう。これは18万円程度の買い物であったと記憶している。「PC 6001 MKⅡ」と呼ばれていた。ソフトは現在のフロッピーディスクやCD,DVDと違い、テープを使っていた。残念なるかなこのパソコンも自分の性格どおり熱しやすく醒めやすく、使いこなす事なく程なく飽いてしまい、ゲームだけを楽しんでいた。

幸いにもその後、会社がほかの企業に比べ早期のパソコンを導入に踏み切ったので、もともと興味があったことからますますその魅力に取り付かれ、この年に至るまでパソコン無しでは生活が出来ないと思えるほど、活用している。一番長く続いている趣味かもしれない。

かくのごとく、珍しい物、新しい物を発見すると、何としても手に入れたいとの執念に取り付かれ、家族を巻き込んだ。何も言わず、無用と思われる物を買う僕を許した家内に感謝している此の頃である。魚釣りを覚えたあと、高じて船舶免許を取ったり、アマチュア無線に凝った挙句、家内にも強要し免許を取得させ余計な無線機を買わせたり、ゴルフを覚えるにいたっては病気ではと思えるほど、何度もクラブを買い替えその物欲の激しさが増して行った。腕時計の蒐集などもサラリーマン時代は熱心であったが、退職したら腕時計をする習慣さえなくしてしまった。上記の釣とかゴルフについては日を改めて記すつもりである。お金があればあれもこれも欲しいと思った時期もあったが、無いお金を工夫しながら手に入れたが故に、その喜びも大きかったのだろう。年齢を重ねるごとに、さしもの物欲の権化も、残された日々を考えるようになったためか、特に最近はその欲望が減少してきた。喜ぶべきか悲しむべきか?                 

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2008年12月19日 (金)

怒りを表さない若者と、先を読めない学者、政治家。

年初から年末迄、殆ど明るい話題を見聞することなく、希望のもてない暗黒時代の入り口にあるのではと懸念される今年も、やがて終わろうとしている。世界的な景気後退で、明日の住処や食事すら保障されない若者が連日ニュース番組に顔を出す。多くの局が同様な放送を流す。職場を追われ働きたくても働けない非正規雇用の人たちには、心から同情する。ただ僕が不思議に思うのは、インタビューを受けた人達の多くが、一様に分別ある言葉で諦めの気持ちを述べ、怒りを表さないのである。本当に困っているなら、何故語気を強め経営者なり政治家に対し、契約不履行や国の無策に対し怒りの発言が無いのであろうか。それほど派遣社員は弱い立場にあり、国や企業に対し諦めの気持ちを持っているのであろうか。テレビ局の収録内容は我々には知る術も無いが、過激発言を意図的に放送しないこともあるのであろうか。働きたくても働けないのはすべて彼らの責任ではない。ただ、価値観、人生観の違いでわざわざ非正規の道を選んだ人もいると聞く。彼らは自分の選択が間違っていたことを認めなければならない。

それにしても世の中には、政治学者や経済学者は何百人いるのだろうか。僕は学者でもないし、博識でもないので難しい事は判らないし知らないが、あまた多くの学者先生達は、発端であるアメリカのサブプライムローンが惹起するであろう諸問題について、日本の政治家や経営者に警告を発したのであろうか。問題が起こって後に、したり顔して評論家まがいの発言をする先生達を見ると、学問とは何であろうかと不思議に思う。専門に勉強している人たちがその程度であるから、一般人は不況が目前に襲ってくるまで知る由も無かろう。経済の仕組みを教えたり、語句の解説をするより、経済人といわれる人達や政治家を前に、今後予測される事象を説き、あるいは警鐘を鳴らすべきではなかったのだろうか。

そんな中、行政が失業者を雇用したり、大手のタクシー会社が数千人規模の従業員募集を行ったりする報道に、救われた気持ちになり世の中には立派な経営者もいるものだと、救う神が存在する事に胸を撫で下ろした。

多くの金額を貰っているわけではないが、決まった日時に振り込まれる年金は正直有難い。良い時期に生まれたことに感謝すべきだと思う。今、図書館から借りた「女の活路 男の末路」なる本を読んでいる。老いをどのように受け止めるかは男と女で違いがある。その受容の仕方にどのような違いがあるかを明らかにして、その問題点と解決策を探るのを狙いとしている。当然、所得についても述べられており、それによると高齢者には政財界のトップリーダーやオーナー社長のように莫大な資産や所得を得ている人がいる反面、わずかな年金を頼りにつましい生活を送っている高齢者もいて、二極化しているらしい。当然のこと僕は後者であるが、それでも何とか生活できている。前述した職を失った人たちのニュースを聞くにつけ、わが身の幸せを実感している此の頃である。

                                                       

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2008年12月 2日 (火)

憎むべき振り込め詐欺対策には・・・・こんな手は生ぬるいか?

憎むべき振り込め詐欺については、連日報道され其の対策としてコマーシャルまで流される始末。それほど手口が巧妙化して、被害が膨らんでいるのであろう。最近良く見るようになったCMに欽ちゃんを使った、高齢者向けのそれがある。効果については判らないが、詐欺団の抑止力として結構役立っているのではなかろうか。それでも又、新たな手口を発見し、その上の手をいくから始末が悪い。

これらのCMは騙される側に対する注意の喚起であるが、一方騙す方に対する、悪人どもの一片の良心に期待するCMも流す方法もあるのではと思うが如何であろうか。

悪に染まっている彼らも、幼児期は父母、祖父祖母、兄弟から「可愛い、可愛い」と愛され、無邪気に素直に育った人間であったに違いない。さらに既に結婚していて、妻子を養っている人間もいるであろう。

そのような詐欺師達に対し、「君達にも可愛い子供がいるであろう、其の子供を将来、悲しい目にあわせないためにも足を洗っては」とか、「君らにも年老いた親がいるのでは、そんな人達を苦しめて良いのか?」「子供達が君らの仕事を知ったらどのように思うだろうか」等と呼びかけるCMは流せないものか。彼等の一部には一片の良心を持ち合わせた人間もいるであろう。

確かに、「甘いよ」と一笑に付されるかもしれない。それでも、TVの刑事ドラマで刑事の掛けた優しい一言で、犯人がすべてを白状するシーンを何度か見ている。現実に暴力団から脱退した人間もいるのである。一縷の望みに賭けた、彼らの心情に呼びかける試みも、幾らか効果があるのではと思うのである。

騙す相手の殆どが、残り少ない人生のために蓄えている高齢者であるところに許しがたさを感じるのである。勿論、高齢者以外は騙して良いなどと言ってるわけではない。最近は居を中国におき、そこから電話で振り込め詐欺を行う輩もいるという。僕は、これら高齢者を狙わず、世界の超富裕層から金を巻き上げる方法でも考えろと叫びたい。

最近、一泊350万円の部屋を持つホテルがドバイかどこかでオープンしたニュースを聞いた。僕は我が耳を疑った。僕の年金額は200万円足らずである。その落差の大きさに愕然とした。昔聞いた話であるが、終戦直後日本人同士が喧嘩を始めた。其のとき発せられた一言「お前等は日本人ではないのか、日本人同士で争ってどうなる」で、たちどころに喧嘩は止んだそうである。すでに大戦が終わり60年以上が経過した現在、「日本人が日本人を騙してよいのか」などと、そんなせりふが通用するほど彼らは甘くはないが、世界中には想像できないくらいの大金持ちがいる。騙しを肯定しているわけではないが、どうせ騙すのであればその日暮らしの家庭を狙わず、騙されても痛痒を感じない世界の大金持ちを狙って欲しい。

学者や評論家の先生の分析によると、彼らの中には罪悪感を持たずに犯行を重ねている者が存在するらしい。こうなると、先ほどの呼びかけは殆ど効を奏しなくなる。個人の意見としては、人を騙す行為に対し罪悪感を持たない人間はいないはずだと思うのだが・・・・。子供だまし程度の方法かもしれないが、この方法を支持する人はいないかな。

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2008年11月25日 (火)

「沈黙は金」か?

先日の「天声人語」で「沈黙は自分自身を警戒する人にとって、最良の安全策である」云々の記事。続けて「しかし、政治家はいくら自分の舌が心配でも、沈黙を選ぶすべは無い」とも。かくして、沈黙を選ばなかった政治家先生が議員辞職に追い込まれた数、枚挙に遑がない。だが、彼らはいったん口から出た言葉を撤回する厚顔さを持ち合わせている。「最初に発言した言葉が本音」だと、国民は知っているのであるが。

こんな便利な手法が、世の中に通用するのであれば、僕の人生も少しは変わって、勤務評定値が上がり、受け取る年金額も幾らか増えていたに違いない。

恥多く、誤解される事が多かったサラリーマン人生であったが、それもこれも沈黙を選ばなかった自分が招いた結果なのかもしれない。確かに世には生まれつき度量の大きい、言うところの「清濁併せ呑む」ような豪傑タイプの人間もいる。彼らは決して寡黙ではなく、よく発言もして自己を顕示するが、それでいて上司や同僚から受けが良い。だが、そのようなタイプはそんなに多くなく、どちらかに偏っているようだ。僕もそれである。

厳格な警察官の子として生まれた僕は、小さい頃から正しいと思うことはそれを発言、主張する勇気を持てと教えられ育った。まあ、根っからのバカではないから成長とともに、、長いものには巻かれろ式の要領や、上司との議論の場において、最後には相手を立てて、引き下がる術(沈黙する)くらいは、生きる知恵として学んでは行くのであるが、どうしても沈黙を守れない場面も、間々ある。

入社早々のことである。「新入社員は英語でなんと言う?フレッシュマンだろう。色々感じたことを素直に表現して、フレッシュさを会社に与えて呉れ給え」などと乗せられ、まだ子供だったのだろう、いい気になって喋りすぎ、結果煮え湯を飲まされたことを鮮明に覚えている。利口な奴は若い頃から利口で、多くを喋らなかった。

あれから数十年。色々な場面で沈黙を守れず、損な役回りを演じてきた。特に管理能力が無く、人間である部下の扱い方が判らないバカな上司と、口角泡を飛ばして激論になることもあり、発言した言葉はお互い耳に入れた事でもあるし、両者忘れない。

冷静になって、少し言い過ぎたと思っても、政治家みたいに発言を撤回できないし又謝ることも出来なかった。かくして、相手が狭量の上司であれば、扱いにくい部下として、恨みを買うことになる。思い返せば、度量の広い上司は少なかったなあ。

このような上下の人間関係で30数年が過ぎ、無事退職したが、中には寡黙な上司もいた。寡黙は時として他人、特に部下に対しては威圧感として重圧を与えることになる。やはり人間、相手が何を考えているのか判らないと、警戒心が先にたち発言を躊躇させる。確かに良く喋る人には威圧感が少なく親近感を持てるが、口数少なくじっと見つめられれば、気持ちはよくない。在職中はそれなりの存在効果があったのかも知れないが、そのような人間は退職後は哀れなもので、人脈の無い孤独な老後を送っている者が少なくない。

一方、発言量の多さからか、大した出世はしなかった上司が、退職後多くの部下から慕われ、飲み会やゴルフに誘われ生き生きした生活を送っている例もある。このような例を見ると、はたして「沈黙は金」であるのか、僕にはひょっとすると「能弁は金」のように思えるのであるが。

退職から7年が過ぎて、昔の特に在職時の人間関係を思い出すこともなくなったが、「天声人語」を読んでいて、つい昔のことが思い出された次第である。結局そのような生き方しか出来なかった僕であるが、それで良かったのかもしれない。

麻生総理は喋りすぎの感が否めないが、それ故親しみを感じることは出来るが、失言もい。僕は発言量を減らせば少しは威厳が保たれ、重厚感を増すのにと思うこともあるが、「語らねば催促され、語れば吟味される」と、天声人語は続け述べている。政治家の宿命であろう。

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2008年11月15日 (土)

悪筆の悩み・・・字は性格を表すか?

この年齢になると、年末近くまでに20通余の「年頭挨拶欠礼」のハガキを頂戴する。僕はこれを受け取ると、条件反射的に、葬儀場での参列者名簿に記入するシーンを思い出す。現役時代後半は、年間平均7~8回くらいは葬儀に参列したかも知れない。

悪筆を以って自認する僕は、名簿に記入する時が一番嫌な時である。兎に角下手な字で住所、氏名を書かねばならない。人が見ている前で字を書く場合は、例えばゴルフ場での来場者名簿に記入することがある。その場合は、ガヤガヤ喧騒の中で書くし、受付嬢もそれを見ているとは限らない。だが、葬儀の場合は神妙な面持ちの受付が、会葬お礼の品物を渡すための確認の意味を含めて、参列者の記入する名簿を見ている。

中学生の頃までは、まあ人並みの字を書いていたかも知れない。だが性急な性格も災いしてか、其の書くスピードが人様の倍くらいにアップした。一字一字丁寧に書けないのである。ある人からは、平仮名にかなをふってくれまでとも言われたことがある。それでも中には、芸術的な字であると、これ以上のお世辞は無いほどに言われたこともある。とっさに評価の言葉を思いつかなかったのであろう。

特別深く悩んでいるわけではないが、僕から見ると字の上手い人は、其の人柄も良く見えるから不思議である。字の通信教育を受けようなどとは、これぽっちも思わなかったが、やはり上手いに越したことは無い。「字はその人の性格」を反映しているなどと言われるが、多分悪筆は良いほうには採られていないであろう。残念ではあるが仕方ない。

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2008年11月 8日 (土)

読書量が減ってきた。

最近、読書量が減ってきた。それなりの理由があるが、大きな理由は目が疲れること。パソコンに向かっている時間が長ければ長いほど疲れる。そうなると活字の小さい文庫本は、特に苦労する。経済的な理由もあって、僕の蔵書の7割は文庫本である。それらを就寝前に床の中で読むと涙が出るほど目が疲れる。堪らず、1年位前に老眼レンズと、小さなライトを付けた、頭にかぶせて使う、正式名称は知らないが、所謂拡大鏡を使う仕儀と相成った。

そういう、目の疲れを防止する努力にもかかわらず、昔ほど読まなくなったもうひとつの理由は、活字から映像への転換である。昔から映画好きで、昭和51年に初代ビデオデッキを購入(これは骨董価値を期待して大切に保管している)以来、当時1本2,000円も払って生テープを買い、それに名作の映画を録画保存してきた。当然最近はDVDに替わったが、その合計数も数百本になった。それらを再度鑑直そうと思い、それにかける時間が多くなり、結局目を酷使しないようにと、読書時間が減少したのである。

多くの本の中には、映画化されたりDVD化されたものもあり、それらは手っ取り早く映像で見てしまう。当然本からでないと得られない心理描写、情景描写については、それを承知の上で、映像を選んでしまうのである。もっともそんなに多くの本が映像化されているわけではないが。

こんな理由で、読書量が減るに比例して本の購入数も減少した。この理由は町の図書館を利用するようになったからである。最近まで本は買って読むものと思い込んでいて、本棚に増えていく本を眺め満足していた幼稚な面もある。最近は図書館で、新刊書購入のリクエストを多用するようにしている。購入してくれる確率は結構高く、お陰で大きな活字の本を読むことが出来るのは有り難い。

目薬をつけながら、また目をしょぼつかせながら拡大鏡で本を読む姿等、若い時分は想像もしたことも無かったが、これが現実である。眼圧が高く、時折医者通いをしながらも、好きな活字から離れられないのだから、無理をしないで読んでいこう。

時期は忘れたが、1,2年前かもしれない、藤沢 周平の「蝉しぐれ」を映画で鑑た。4,5日前、友人と言っても大学の先輩であるが、「僕が理想とする男女の情愛とは、この本の主人公が相手の女性に対して持つ気持ちを言うのだ」と言いながら、これを読めと言って貸してくれた。折角の親切なので現在読んでいる最中であるが、かなり前に見た映画なので細部まで記憶してないが、ところどころ記憶している映像とダブらせながら読んでいる。特に心理描写については、小説でなければ描けない深層まで掘り下げているので、映像からは推し量れない部分を補強してくれリアリティーが増す.。

今後は慌てず、焦らず目を庇いながら読んでいきたいと思う。

「蝉しぐれ」を読んでみたい方は下欄をどうぞ

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2008年10月18日 (土)

努力させて頂きます・・・・?

今日の朝日新聞天声人語欄は、麻生首相の口癖について語っている。「基本的に」「なんとなく」「等々」「いかがなものか」「きちんと」等、良く調べている。正直言って、人格的に「重たく」感じないが、桁外れの富裕層出身にしてはなんとなく親しみを感じるのは、その重厚に見えない性格故か。亡くなった橋本元首相や福田前首相と好対象である。

ところで、僕が非常に気になる言葉がある。ひとつは「本当に」の多用。まず、人様がしゃべったら、必ずと言っていいほど「本当に」がでてくる。これ等は多くの日本人が無意識に使っている言葉ではなかろうか。それが嘘では無いのだけど、強調したい意味から使っているのであろう。ひょっとすると日本人の口癖ナンバー1かもしれない。

次に「~の意味で」の多用。良く聞いてみると、前後全く関連が無い事が多く「どういう意味なんだ?]と、こちらが聞きたいくらいである。これ等はもう口癖になっているようだ。

次が「~させて頂く」。この言葉が何時頃から話されるようになったのだろう。少なくとも20年位前には今ほど使われていなかったように記憶している。確かに受ける方としたら、へりくだった言葉なので好感を持って聴ける。だが猫も杓子も「させて頂く」の連発には嫌悪感さえ抱くのは僕だけだろうか。謙譲語としての「頂く」がこれほど多用されるようになったのは驚きである。

それにしても、先日聞いた「努力させて頂きたいと思います」なる言葉には、僕は違和感を持った。自分でとる行為に「させて頂く」は無いのではないか。暗に相手の了解と断りを求める気持ちが込められた言葉に、自分で勝手にとる行為を断る必要があるのだろうか。これ等、「努力いたします」が正解と思うが。

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2008年10月 5日 (日)

キャンピングカー展示会へ行ってきた。

熊本の友人に誘われて、佐賀県鳥栖市で開かれたキャンピングカー展示会場へ行ってきた。200キロ以上もある街へ家内を連れ、買う予定も無いというより買えない身分なのにご苦労なことである。

時間が早かったこともあり思ったほどの人出ではなかったが、出展車両は結構多かった。豪華なつくりの大型車に混じって、軽自動車のそれにかなりに人が注目して集まっていたのには、正直救われた気持ちになった。

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鹿児島のメーカーが作った

軽自動車タイプ

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友人は牽引タイプのキャンピングカーを予約した。そりゃー、僕も欲しい。せめて軽自動車タイプでも買えれば、今後の人生結構華やかになるだろうが、なにせ先立つものが無い。デジカメで豪華車をパチパチやってもリッチな気分にもなれなかったもんね。実際こんな買い物をするのはどんな人間なのだろうかと、周囲を見回したが顔では判らなかった。

前日、友人と回ったゴルフの薄暮プレーと、当日の帰途酒の肴に買った「馬刺し」に満足して、鹿児島の自宅に帰るべく高速に乗った。ま、この程度を満足だと思えるのが僕の幸せなのかも。

今週は、高校時代の友人との飲み会と、今回の行事で都合2回の熊本往復をした。それでも殆ど疲労を感じなかったのは有り難い事である。

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2008年10月 2日 (木)

高校同級生との飲み会は・・・。

台風15号が気になりながらも約束の日に、隣県熊本まで車で出かけた。大雨なのでゴルフは中止になったが、飲み会挙行は当然。年に3回程度4,5人で集まる。殆ど全員が進学する所謂進学校で、その時代昼飯食いながらの英単暗記は当然の校風。劣等生の僕は、早く卒業したいその気持ちだけで3年間を過ごした。浪人時代を加えた4年間、実に長かった。

厳しい世の中の現実と戦い、生き残り競争に耐えて卒業したのは7年前。皆の顔はもうすっかり和やかさを増し、眉間にしわ等見えないし、難しい話も無し。

2次会はまさにカラオケ大会である。あの頃、こんな時代が来るとは夢想だにしなかった。年金も60歳から貰えたし、運命とはいえ実に良い時代に生を受けたことに感謝すべきであろう。自分の体力をそれぞれが承知しているのか、一昨年頃から誰からともなく誘っていた、3次会が無くなった。それでも大満足で本年末の再会を約し、別れた。

翌日は全員から、車の運転に気をつけるようにとの電話やメールを貰い、ついホロリ。元職場の同僚との飲み会と違い、気の置けない学友との飲み会がいかに愉快なものか、翌日まで余韻を楽しむことが出来た。さー、今からデジカメ写真をプリントして彼等に送ろう。

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2008年9月28日 (日)

ブログ開設にあたって。

「ブログ」という言葉を聴いて何年になるだろう。同郷の力士「普天王」のブログが人気であるとの放送を聴き、バスに乗り遅れまいと早速参考書を買い、開設に取り掛かったのであるが、自他共に認める典型的日本人。熱しやすく冷め易い。たちどころに不安感に襲われた。「何時まで続くだろうか、途中で投げれば笑われる、記事がそんなにあるだろうか」等々。結局続かなかった。あれから数年、残り人生が少なくなった此の頃、過去を振り返り、自分の来し方を反省し行く末の糧にすべく「恥多かった人生」の総括をしたいという気持ちになり再度の挑戦である。既に他のブログも開設しているので、時間的に本当に続けられるのか確実に途中放棄が予測されるが、まあースタートしよう。ブログ名の「亭主の好きな赤烏帽子」はくるくる変わる僕の趣味を、黙って見てくれた女房に対しての感謝の意味もあり、広く浅い趣味を中心に取り入れての日誌である。

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